借り物競走の罪
体育祭当日。5月最後の木曜日。
朝から雲一つない快晴だった。先週まで雨の予報だったが、当日になって見事に覆した。花園先生が「私の日頃の行いがいいから」と自画自賛していたが、たぶん関係ない。
グラウンドにはテントが並び、白線が引かれ、スピーカーから音楽が流れている。生徒たちは体操服にクラスカラーのハチマキを巻いて、すでに興奮状態だ。2年3組のカラーは青。
俺は青いハチマキを額に巻きながら、グラウンドを見渡した。5月の日差しが白線に反射して眩しい。昨日までの練習で足の裏にできたマメが少し痛むが、走るのに支障はない。
秋月はスタンドの端に座っていた。青いハチマキを手に持ったまま、どう巻くか迷っているように見えた。つぐみが横から「貸して、巻いてあげる」と手を伸ばして、秋月の額にハチマキを巻いた。秋月は「......ありがとう、とは」と言いかけて、つぐみに「はいはい、言わなくていいよ」と笑われていた。
「うおおお!! 体育祭だあああ!!」
桐生が両腕を上げて叫んでいる。朝からテンションの上限を振り切っている。こいつは行事ごとに全力で騒ぐタイプだ。
「うるせえ。朝から鼓膜が痛い」
「蒼太、リレーも二人三脚も頼むぞ! 俺は玉入れで100個入れるからな!」
「玉入れに100個もないだろ」
午前の部の最初の種目は借り物競走だった。各クラスから2名ずつ出場する。俺はここにも名前が入っていた。花園先生が「藤宮くんは足が速いから」と勝手にエントリーしたらしい。
スタートラインに立つ。隣のレーンには他クラスの奴がいるが、知らない顔だ。
笛が鳴った。走る。中央のテーブルに裏返しに置かれたカードに手を伸ばす。
表に返す。
手書きの文字が目に入った。
『クラスで一番可愛い人』
一瞬、足が止まった。
誰だよ、こんなお題を書いたのは。
スタンドの方から桐生の声が聞こえた。あいつの声はグラウンドの端まで届く。
「蒼太!! 秋月さん連れてこい!!」
桐生の絶叫が会場に響き渡った。周囲の生徒が「おお」とか「秋月さん!」とかざわつく。
俺は振り返って叫び返した。
「うるせえ!」
視界の端で、スタンドの一角に秋月が座っているのが見えた。いつもの無表情で、ペットボトルのお茶を手にしている。桐生の絶叫が聞こえたはずだが、微動だにしない。
考えている暇はなかった。タイムは走り続けている。
俺は一番近くにいた人間の腕を掴んだ。
「白河、来てくれ!」
「え、あたし!?」
つぐみだった。スタンドの最前列で足を組んで座っていたつぐみが、目を丸くした。
「説明は後! 走るぞ!」
「ちょ、引っ張んないでよ!」
つぐみの手を引いてゴールまで走った。つぐみは文句を言いながらも全力で走ってくれた。バドミントン部だけあって足が速い。フットワークに無駄がない。コーナーの切り返しが俺より上手いかもしれない。
結果は3位。悪くない。
ゴールラインを越えて、つぐみが膝に手をついて息を整えている。髪が乱れて、ハーフアップのウェーブが崩れかけていた。
「あんた......いきなりすぎでしょ......」
「悪い。助かった」
「で、お題何だったの」
俺がカードを見せると、つぐみは数秒黙った。それからゆっくり顔を上げた。
「......あたしが、クラスで一番可愛い人?」
「近くにいたから」
「は?」
つぐみの目が半開きになった。呆れと何かが混ざった目だ。
「近くにいたから。それだけだけど」
「......あんた、ほんと罪な男だわ」
「何が」
「わかんないなら、余計に罪」
つぐみが首を振って、スタンドに戻っていった。
罪。意味がわからない。近くにいた人間を連れていっただけだろう。合理的な判断だ。
桐生が走ってきた。
「蒼太!! なんで白河なんだよ!! 秋月さんだろ普通!!」
「普通の基準がわからん」
「クラスで一番可愛い人だぞ!? 秋月さん一択だろ!?」
「お前のランキングは知らん。つーか白河にも失礼だろ」
「あ......そりゃそうだ。ごめん白河ー!」
桐生がスタンドに向かって叫んだ。つぐみが遠くから中指を立てた。あのジェスチャーは体育祭にふさわしくない気がする。
ひなたが隣のクラスの応援席から駆け寄ってきた。
「そうくん! 借り物競走見てたよ! 白河さんと走ってたね!」
「ああ。近くにいたから」
「お題、何だったの?」
「......まあ、色々」
俺はカードを裏返しにしてポケットに入れた。ひなたに見せたら面倒なことになりそうな予感がした。ひなたは「色々って何ー?」と首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。あいつのこういう淡白さに、俺は何度か救われている。
* * *
借り物競走の結果が落ち着いた後、俺はスタンドに戻って水を飲んだ。
次の種目まで少し時間がある。桐生は玉入れの練習と称して腕を振り回している。あれで本番に力が残るのだろうか。
ふと、視界の隅で秋月が目に入った。スタンドの端に座って、お茶を飲んでいる。いつもの無表情だ。何事もなかったように、グラウンドの方を見ている。
ペットボトルのキャップを閉めた。きゅっ、と。それから、もう一回きゅっと締め直した。
指先が白くなるくらい、きつく。
つぐみがスタンドに戻ってきて、秋月の隣に座った。
「凛、お茶飲む?」
「......飲んでる」
「そっか。さっきの借り物競走、見てた?」
「......別に。見てない」
「ふうん。藤宮、あたしの手引っ張って走ったんだよ。びっくりした」
「......そう」
「お題、『クラスで一番可愛い人』だったんだって」
「............」
秋月の手が一瞬だけ動いた。ペットボトルを握る力が強くなったように見えた。
いや、見えただけだ。俺のいる位置からは正確にはわからない。
「凛?」
「......何」
「なんでもない」
つぐみが何か言いたそうにして、やめた。代わりに秋月の横顔をちらっと見て、小さくため息をついた。
俺はタオルで汗を拭きながら、次の種目の準備に向かった。午後には二人三脚とリレーが控えている。集中しないと。
秋月が何を考えているかは、俺にはわからない。いつもそうだ。
ただ、ペットボトルのキャップを必要以上にきつく閉めている秋月の指先が、なんとなく記憶に残った。
あと、つぐみが「クラスで一番可愛い人」のお題を伝えた時の12点の沈黙も。
あの沈黙の意味が、俺にはわからなかった。




