体育祭前夜
5月下旬。中間テストの余韻が消えないうちに、教室の空気がまた騒がしくなった。
HRで花園先生が体育祭のプリントを配る。種目一覧とペアの振り分け表だ。俺は受け取ったプリントに目を通した。
クラス対抗リレー、障害物競走、借り物競走、二人三脚、玉入れ、綱引き。定番のラインナップだ。
リレーのアンカーの欄に、俺の名前があった。
「蒼太、お前アンカーじゃん! さすが元サッカー部!」
桐生が俺のプリントを横から覗き込んで声を上げる。元サッカー部というか、中学の時に少しやっていただけだが、足が速いのは確かだ。50m走6秒2。体力テストで学年上位に入ったのが、こんなところで効いてくるとは思わなかった。
「つーか蒼太、二人三脚のとこ見ろよ!」
「ん?」
桐生が興奮気味に指さした欄を見た。二人三脚のペアはくじ引きで決まる。プリントにはくじの結果が印刷されていた。
藤宮蒼太──秋月凛。
隣を見た。秋月も自分のプリントを見ている。表情は変わらない。プリントを机の上に置いて、窓の外に視線を移した。
「......」
無言。完全な無言だ。肯定も否定もない。空気のように受け止めている。
俺は一応、声をかけた。
「秋月、二人三脚のペアだってさ。よろしく」
秋月がこちらを見た。1秒。2秒。
「......勝手にしないで」
意味がわからない。くじ引きの結果に俺の意志は介在していない。そもそも「よろしく」に対する返答として成立していない。
桐生が「ツンデレか!?」と叫んだ。うるさい。
「凛、やったじゃん」
つぐみが後ろから秋月の肩に手を置いた。秋月は振り向きもせずに「......何が」と返す。
「だって二人三脚でしょ? 藤宮とペアなんて、楽しそうじゃん」
「......楽しいかどうかは関係ない。競技だから」
「はいはい。競技ね」
つぐみがにやにや笑っている。秋月は窓の外を見たまま動かない。耳がかすかに赤いのは、西日のせいだろう。たぶん。
「そうくん! 体育祭の種目見た!?」
教室のドアからひなたが顔を出した。隣のクラスのプリントを握りしめている。
「見たよ。リレーのアンカーになった」
「すごい! そうくん足速いもんね! ひなた、応援するからね!」
「おう」
「あ、二人三脚は誰とペアなの?」
俺が答える前に、桐生が「秋月さんだよ!!」と叫んだ。声量を調整する機能は相変わらず搭載されていない。
ひなたが「えっ」と目を丸くして、秋月をちらっと見た。秋月は窓の外から視線を動かさない。
「そっかあ。頑張ってね、そうくん!」
ひなたはいつも通りの笑顔で手を振って、自分のクラスに戻っていった。あいつは本当に表裏がない。
* * *
放課後、グラウンドの隅で二人三脚の練習が始まった。
体育祭は来週の木曜日。練習できるのはせいぜい4日か5日だ。他のペアも周囲で練習しているが、俺と秋月はグラウンドの端を選んだ。正確には、秋月が人の少ない方に歩いていったから、俺がついていった。
紐を持って、しゃがむ。秋月の右足と俺の左足を結ぶ。
足首に触れた瞬間、秋月の足がびくっと動いた。
「......」
「悪い。くすぐったかったか?」
「......別に。早くして」
秋月の声が少し硬い。顔は見えない。しゃがんだ状態だと、長い黒髪がカーテンのように顔を隠す。
紐を結び終えて立ち上がる。秋月と肩が並ぶ。互いの体温を感じるくらい近い。
「じゃあ、まず歩くところから」
「......わかってる」
右足を出す。秋月が左足を出す──はずだった。
秋月の左足は動かなかった。俺だけが一歩前に出て、バランスを崩す。紐で繋がった秋月の足が引っ張られて、2人して前につんのめった。
秋月の肩を咄嗟に掴んで、なんとか転倒は免れた。
「......速すぎる」
「いや、合図してから動いたんだけど」
「......合図が聞こえなかった」
「目の前で言ったんだが」
秋月が俺を睨んだ。正確には、わずかに眉を寄せた。秋月基準ではかなり強い感情表現だ。
「......藤宮が合わせて」
「いや、二人で合わせるんだよ」
秋月が黙った。何かを言いたそうにしてから、口を閉じる。
もう一度。右足を出す。今度は声を出した。
「いち」
秋月の足が動いた。半拍遅れて、結んだ方の足が引っ張られる。
「に」
二歩目。秋月のリズムが俺に追いつこうとしている。だがまだズレている。三歩目で秋月の体が傾いた。俺が腰を支える。
「......離して」
「離したら転ぶだろ」
「......転ばない」
「今、転びかけたよな」
「............」
12点の沈黙。秋月語で「反論できない」の意味だ。
もう一度最初から。右、左、右、左。声を出して、タイミングを合わせる。3回目でようやくまっすぐ5歩進めた。5回目で10歩。8回目でようやく20mを歩けるようになった。
秋月の歩幅が少しずつ俺に合ってきている。最初は俺が合わせようとしたが、秋月の方から調整し始めたのが途中でわかった。
「......次、走る」
「もう少し歩いてからの方が」
「......走る」
秋月は頑固だ。
走り出した。3歩目で秋月が体勢を崩す。俺が腕で支える。秋月が俺の腕を掴む。掴んだまま、4歩目、5歩目。走れている。
10m走って止まった。息が少し上がっている。
秋月がまだ俺の腕を掴んでいた。
「秋月、腕」
「......あ」
秋月が手を離した。一瞬だけ、本当に一瞬だけ、手のひらに秋月の指の感触が残った。
花園先生が近くを通りかかって、「二人三脚は肩を組むか、腕を組むと安定するわよ」とアドバイスをくれた。
秋月が固まった。
肩を組むか、腕を組む。つまり、体を密着させる必要がある。
「......」
「......」
俺も秋月も黙った。周りのペアを見ると、確かに腕を組んで走っている組が多い。男女のペアは気まずそうにしつつも、競技のために割り切っている。
秋月が小さく息を吸った。それから俺の方を向いた。目は合わせない。視線は俺の腕のあたりに固定されている。
「......これは、競技のためだから」
宣言してから、秋月は俺の腕に手を回した。
軽い力だった。触れるか触れないかくらいの、最低限の接触。それでも秋月の手が震えているのがわかった。
秋月の耳が、夕日のせいじゃなく赤かった。
「......何か言ったら、次の練習は来ない」
「何も言ってない」
「......そう。なら、いい」
右、左、右、左。
秋月の腕が俺の腕に回されたまま、2人で走る。さっきより安定している。体の軸がブレにくい。秋月も気づいたのだろう、手の力が少しだけ強くなった。
20mを走り切った。
秋月が腕を離す。今度は俺が声をかける前に、自分から離した。
「......明日も練習する」
秋月はそれだけ言って、荷物を取りに教室へ戻っていった。
俺は足首に残る紐の跡をさすりながら、ぼんやりとグラウンドに立っていた。夕焼けが校庭を赤く染めている。
競技のため。秋月は確かにそう言った。俺もそう思っている。二人三脚なんだから、腕を組むのは当然だ。
当然なんだが。
秋月の手が震えていたことが、なんとなく頭から離れなかった。




