二月十四日の朝
バレンタイン当日、教室の空気は朝からどこかソワソワしていた。女子たちが小声で何かを話しては、こそこそと視線を交わしている。廊下では下級生らしき集団が紙袋を隠すように抱えて足早に通り過ぎていった。
俺は鞄から弁当箱を取り出しながら、教室を見回した。女子の声のトーンが高い。机の中を何度も確認する動作が、あちこちで見られる。
教室の後ろの方では、女子数人が固まって何かを見せ合っていた。ラッピングの色違いが並んでいるところを見るに、渡す相手を決めかねているのかもしれない。廊下からは他クラスの女子が「今年、誰にあげるか決めた?」と聞く声が漏れ聞こえてきた。バレンタインという行事が、教室全体の空気を微妙に張り詰めさせている。
自分の席に着くと、机の中に何かが挟まっていることに気づいた。取り出してみると、小さな封筒だった。差出人の名前はない。表面には丸文字で「藤宮くんへ」とだけ書かれている。
「何それ、蒼太」
通りがかった桐生が、興味津々でこっちを覗き込んでくる。
「知らねえよ。今、気づいた」
「開けてみろよ、早く」
桐生に急かされて封を開けると、中には短いメモと小さなチョコレートが入っていた。メモには「いつもありがとう」とだけ書かれている。差出人の見当がつかない。
「誰からだよ、それ」
「分かるかよ、そんなの」
俺は首を捻りながら、チョコレートを鞄にしまった。桐生は羨ましそうな顔で、自分の机の中を漁っている。
「俺の机、何も入ってねえ」
「そりゃそうだろ」
「今年こそ本命チョコもらいたいんだよなー」
桐生が朝から、そう宣言していた。毎年恒例の発言だが、今年もまた叶いそうにない気配が漂っている。
「桐生、そういうこと大声で言うと余計もらえなくなるよ」
通りがかったつぐみが、冷静にそう突っ込んだ。
「うるせえ、応援してくれよ、少しは」
「応援はしてるけど、期待値は上げないようにしてる」
つぐみのそっけない返しに、桐生は肩を落とした。
「白河、今年はくれるのか、チョコ」
桐生が期待を込めてそう聞くと、つぐみは少し考える素振りを見せた。
「気が向いたらね」
「気、向けよ、絶対」
桐生の食い気味の要求に、つぐみは呆れたように笑った。
「うるさいなー、気が向いたらって言ってんじゃん」
その掛け合いを聞きながら、俺は自分の席で苦笑いする。桐生の必死さは毎年変わらなかった。
俺は自分の席で、そのやり取りを聞き流しながら、隣の凛の様子をちらりと窺った。凛はここ数日、放課後に来られないことが続いていた。理由は聞いていない。詮索しないのが、俺たちのやり方だった。
朝のホームルームが終わって、1限の授業が始まる。凛のペンが、何度も止まっては動いた。黒板の文字を写す手が途中で止まり、しばらくしてからようやく動き出す。それを1限のあいだに、俺は3回数えた。数えている俺も俺だが。
休み時間になっても、凛は文庫本を開かなかった。机の上に手を置いたまま、窓の外をぼんやり眺めている。俺はその様子を横目で気にしつつ、声をかけるタイミングを掴めずにいた。
昼休みになって、いつも通り弁当を広げる。だが凛は、いつものように俺の弁当を覗き込んでこなかった。鞄の持ち手を両手できつく握ったまま、視線だけを窓の外に逃がしている。
「秋月、今日の卵焼き、見ないのか」
俺がそう聞くと、凛は少し慌てたように視線を上げた。
「......見てる」
凛はそう言ったが、その目は俺の顔をあまり見ていなかった。何かに気を取られているような、落ち着かない様子だった。
「体調悪いのか」
「......平気」
凛はそう答えたが、語尾が途中でしぼんだ。俺はそれ以上深く聞かず、弁当を食べ進める。
「秋月、今日、放課後何か予定あるのか」
俺が何気なくそう聞くと、凛は箸を止めて、少し考える素振りを見せた。
「......予定はある。多分」
「多分?」
「......まだ、決まってない」
凛はそう答えて、視線を落とした。俺はその要領を得ない返事に、少し首を傾げながらも、それ以上追及しないことにした。
「決まってないなら、決めてから言えばいいのに」
「......そういうものじゃない」
凛はそう言い返してきたが、その声には普段の鋭さがなかった。歯切れの悪さを自覚しているような、もどかしそうな響きだけが残った。俺は箸を止めて、その様子をもう少し観察したかったが、凛はすぐに視線を弁当箱に戻してしまった。
昼休みが終わりかけた頃、教室のドアが開いて、ひなたが入ってきた。
「そうくん、はいこれ! 友チョコだよ!」
ひなたはそう言って、小さな包みを差し出してくる。俺はそれを受け取りながら、少し驚いた。
「ありがとう、ひなた」
「えへへ。今年も美味しくできたよ!」
ひなたはそう言って、明るく笑った。
包みを開けると、綺麗にラッピングされたチョコレートが入っている。個包装のトリュフが3粒、リボンの結び目まで丁寧に仕上げられていた。少し離れた席で、凛がこっちをちらりと見てから、また視線を逸らすのが目に入った。
俺は何気なく、朝机の中にあったチョコレートのことを思い出す。誰からのものか分からないまま、味も確かめていなかった。今のうちに食べてみようかと鞄に手を伸ばしかけて、やめた。誰かに見られて説明を求められても困る。
「美味そうだな」
「でしょ! 頑張って作ったんだから」
ひなたはそう言って、満足げに頷いた。
「今年、誰にあげたんだ、これ」
俺がそう聞くと、ひなたは指を折りながら答える。
「クラスの女子何人かと、そうくんと、あとつぐみんにも」
「気合入ってるな」
「毎年恒例だからね」
ひなたはそう言って、また笑った。その笑顔には、去年までのような気負いがなかった。
「そういえば、そうくん、放課後何か予定ある?」
ひなたが不意にそう聞いてくる。俺は少し考えてから答えた。
「特にねえけど」
「そっか。じゃあ、また明日ね!」
ひなたはそう言って、手を振って自分の席に戻っていった。その足取りは軽く、去年までの複雑な感情を引きずっている様子は微塵もない。俺はその後ろ姿を見送りながら、あの告白の日からここまで、随分と時間が経ったことを実感する。
ひなたが自分の席に戻ってすぐ、今度は別の女子生徒が数人、遠慮がちに俺の席に近づいてきた。
「藤宮くん、これ、よかったら」
友チョコらしき小さな袋を差し出されて、俺は戸惑いながら受け取る。
「あ、ありがとう」
「毎年、藤宮くんの弁当美味しそうだから、お裾分け的な。じゃあね!」
「あ、あと朝の封筒もうちらの! 名前書き忘れて、なんか匿名みたいになっちゃったけど」
一番後ろの子がそう付け足して、彼女たちは笑いながら去っていった。朝からの小さな謎が、あっけなく解けた。桐生に教えたら、あいつは多分がっかりする。机の上に、いつの間にかチョコレートの包みが3つ並んでいる。桐生がそれを見て、恨めしそうな声を上げた。
「なんだよ、その量。俺の机には未だに何もねえのに」
「知らねえよ、そんなの」
俺は苦笑いしながら、包みを鞄の隅にまとめてしまった。
教室の別の場所では、つぐみが桐生に何かを渡しているのが見えた。
「白河からもらえる日が来るとは」
桐生が驚いたような声を上げている。つぐみは腕を組んで、そっけなく答えた。
「義・理・だ・か・ら・ね」
つぐみは一音一音区切って、そう強調した。桐生はそれでも嬉しそうに、包みを大事そうに抱えている。
昼休みが終わって、午後の授業が始まる。凛は相変わらず落ち着かない様子で、時折こっちをちらりと見ては、また視線を逸らしていた。5限の数学では、先生に指名されても一瞬反応が遅れる場面があり、隣の席から見ていた俺にも、その動揺が伝わってきた。
6限が終わる頃には、教室の空気は朝とはまた違う種類の高揚感に包まれていた。放課後の予定を確認し合う声、渡すタイミングを相談する声があちこちから聞こえてくる。俺はそれを聞き流しながら、鞄の中の見慣れない包みのことを、また思い出していた。
放課後、俺が帰り支度をしていると、つぐみが近づいてきた。
「藤宮くん、放課後、教室に残りな」
つぐみが小声で、そう耳打ちしてくる。
「なんだよ、急に」
「いいことあるから。あたしの口からは言えないけど」
つぐみはそう言って、意味深に笑った。
「何だよ、それ」
「あとは凛の問題」
つぐみはそれだけ言って、さっさと教室を出ていった。俺はその背中を見送りながら、少し戸惑う。
教室の周りでは、他の生徒たちも帰り支度を始めていた。机を戻す音、椅子を引く音が重なって、いつもの放課後の喧騒が満ちている。その只中で、桐生が俺の席の近くを通りかかって、意味深にこっちを見てくる。
「蒼太、何か言われたのか、つぐみに」
「......いや、別に」
「歯切れ悪いな。まあ、頑張れよ」
「頑張れって、何を」
「知らねえけど、なんとなくそう言いたくなった」
桐生はそう言って、鞄を担ぎ直した。
「朝の封筒、結局あの子たちのだったんだってな」
桐生がふと思い出したように言ってくる。昼のうちに、どこかから聞きつけたらしい。
「名前の書き忘れだとよ。ミステリーでもなんでもなかった」
「ちぇっ。でも今日はまだ色々降ってくる日だろ、お前」
桐生はそう言って、意味ありげに笑った。
「変な言い方すんな」
「事実だろうが」
桐生はそう言って、軽く手を上げて教室を出ていった。俺はその後ろ姿を見送りながら、さっきのつぐみの言葉を、もう一度反芻していた。
凛の問題。桐生の意味深な顔と合わせて、ろくでもない予感しかしない。
教室には、いつの間にか俺と凛の二人だけが残っていた。他の生徒たちは、皆もう帰った後らしい。廊下の足音も、もう聞こえてこない。窓の外は夕方の色に近づき始めていて、教室の隅々まで橙色の光が伸びている。
凛は自分の席で、鞄を持ったまま、じっとこっちを見ていた。いつにない緊張が、その顔に張りついている。制服のリボンを、片手で何度も触っては離す仕草を繰り返していた。俺は自分の席から動けないまま、その様子を見つめ返す。教室の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
凛の鞄が、横に少し張っていた。四角い何かが、内側から布を押している形だった。
窓の外で、下校していく生徒たちの声が遠くに聞こえる。教室の中だけが、時間の流れが違うようだった。俺は鞄を持ったまま、動くに動けず、ただ凛の次の言葉を待っていた。喉の奥が渇いて、唾を飲み込む音まで自分の耳に届きそうだった。




