義理だから
教室には、俺と凛の二人だけが残っていた。窓の外はもう夕暮れの色に染まっている。
つぐみに言われた通り、俺は帰り支度を済ませて、この場に残っていた。だが何を待っているのか、はっきりとは分からないままだった。机の脚に鞄を立てかけて、椅子に座り直す。その音が、静かな教室に思いのほか大きく響いた。
「藤宮くん、放課後、教室に残りな」。つぐみの言葉が、まだ頭の中で繰り返されている。「あとは凛の問題」とだけ言い残して去っていった横顔には、いつもの軽さとは違う真剣さがあった。
凛は自分の席に座ったまま、鞄を膝の上に乗せて、じっと動かずにいる。教室には、二人分の呼吸の音だけが響いていた。窓の外では部活動の掛け声が遠くに聞こえていたが、それもやがて静かになっていく。廊下の照明が一つ、また一つと落とされていく音が、遠くから届いた。
「秋月、何か話あるのか」
俺がそう切り出すと、凛はゆっくりと顔を上げた。だがすぐには言葉が出てこないようだった。膝の上の鞄を、指先で何度も撫でるように触っている。
窓の外の光がだんだんと弱まっていく。教室の隅にはもう影が落ち始めていた。
「......今日、放課後、忙しいって言ってたよな」
俺が助け船を出すように、そう続けてみる。凛は小さく頷いた。
「......うん」
「そのこと、話すのか」
「......うん」
凛はそう答えて、深く息を吸い込んだ。それから、意を決したように立ち上がる。椅子を引く音が、静かな教室に響いた。
俺はその様子を、ただじっと見守ることしかできなかった。何を言われるのか予想もつかないまま、心臓の音だけが速くなっていく。手のひらに、じわりと汗が滲んでいるのに気づいた。
凛は席を立って、鞄の中に手を入れた。その手が、微かに震えているのが見える。爪の先が鞄の内側を何度か探るように動いてから、ようやく目当てのものを掴んだ。
「秋月?」
俺がそう声をかけると、凛は小さく頷いて、こっちに歩み寄ってきた。手には、白い紙袋を持っている。
凛は俺の前まで来ると、その紙袋を差し出してきた。両手でしっかりと持ったまま、腕をまっすぐ伸ばしている。
「......義理だから。勘違いしないで」
その声も、少し震えていた。凛の耳が、夕日の色と同じくらい赤く染まっている。俺はその紙袋を、恐る恐る受け取る。手の中に、まだ凛の体温が残っているような気がした。
「これ、秋月が作ったのか」
俺がそう聞き返すと、凛は小さく頷いた。
「......いいから、開けて」
凛はそう促してくる。俺は紙袋を開けて、中身を確認した。袋の口を開けた瞬間、甘い香りがふわりと立ち上る。カカオの香りに混じって、微かに焦げた匂いもした。教室のいつもの匂いとは違う、甘くて温かい香りだった。
不揃いだが、丁寧に包まれたチョコレートが入っている。大きさも形も、決して綺麗とは言えなかった。表面には気泡の跡がいくつも残り、角も丸くなりきっていない。だが包装紙の端はきっちりと折り込まれていて、そこには確かな手間が感じられた。
「手作り?」
俺がそう聞くと、凛は小さく頷いた。
「......つぐみに教えてもらった」
「秋月が料理したのか」
その驚きに、凛は少しむっとしたような顔をした。
「......チョコは料理じゃない。お菓子」
「同じだろ」
俺がそう指摘すると、凛はそれ以上反論せず、少し口を尖らせた。
「......何回も焦がした。湯煎の温度、難しい」
凛はぽつりと付け加える。その口ぶりから、簡単には仕上がらなかったことが伝わってきた。
「何回くらい」
「......数えてない。つぐみが、途中で数えるのやめろって言った」
凛はそう言って、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。手の甲には、うっすらと絆創膏の跡が残っている。
「不格好だけど......味は、多分大丈夫」
凛がそう付け加える。俺はもう一度、紙袋の中のチョコを見つめた。大きさも形もバラバラで、明らかに素人の手作りだと分かる出来だった。
「これ、食べていいのか」
「......そのために、持ってきた」
凛はそう言って、少し緊張した面持ちで俺を見ている。両手を胸の前で軽く握り、俺が口に運ぶ瞬間をじっと見守っていた。
「そんな見なくても、ちゃんと食うよ」
「......見てるだけ」
凛はそう言い張ったが、視線はまだチョコから離れなかった。まるで採点でもするような真剣な目つきだった。両手を胸の前で握りしめたまま、身じろぎ一つしない。
俺はチョコを一つ手に取って、口に入れる。表面はざらついていたが、中は思ったより滑らかだった。手のひらに残った包装紙の折り目が、指先にまだ触れている。
甘さと苦さのバランスが、絶妙だった。素人が作ったとは思えないほど、しっかりとした味がする。カカオの香りが鼻に抜けて、しばらく残った。
噛みしめた手が、途中で止まった。
「......うまい。すげえ嬉しい」
その一言に、凛は少し驚いたような顔をした。
「......嬉しい?」
凛が確認するように、そう聞き返してくる。俺は凛を真っ直ぐ見て、はっきりと答えた。
「ああ。秋月が作ってくれたんだろ。嬉しいに決まってる」
凛の目が、じわりと潤んだ。唇が微かに震えている。俺はその変化に気づいて、少し慌てた。
「秋月、大丈夫か。どうした」
俺がそう聞いても、凛は答えない。ただ小さく首を振るだけだった。両手で紙袋の持ち手を握っていた指先が、白くなるほど力が入っている。
「秋月?」
俺がそう呼びかけると、凛は慌てたように顔を伏せた。
「......何でもない」
凛はそう言い張ったが、その声はもう泣き出す寸前のようだった。俺はどうすればいいのか分からず、ただその場に立ち尽くす。凛の肩が小さく上下しているのが見えて、何か言葉をかけたいのに、何を言えばいいのか見当がつかなかった。
「秋月、無理して笑わなくていいから」
俺がそう言うと、凛は一瞬顔を上げかけて、またすぐに俯いた。長い髪が肩からこぼれて、その表情を隠すように垂れ下がる。
「......もう行く」
凛はそう言い残して、そのまま教室を飛び出していった。俺はその背中を、呆然と見送るしかなかった。
「秋月、待てって」
俺は慌てて呼び止めようとしたが、凛はもう廊下の向こうに消えていた。追いかけるべきか迷ったが、俺の足は動かなかった。
廊下を小走りで去っていく凛の姿が、窓越しに見える。マフラーに顔を埋めたまま、その足取りは早かった。角を曲がる直前、一瞬だけ振り返ったように見えたが、すぐにまた前を向いて消えていった。
俺はしばらくその場に立ったまま、廊下の向こうの静けさを見つめていた。凛の足音はもう聞こえない。教室の蛍光灯だけが、いつも通りの白い光を放っている。窓ガラスに映った自分の顔が、間の抜けた表情をしていた。
手の中のチョコを見つめる。不格好だが、確かに美味しい味がした。
秋月凛は、卵の殻すら平気で入れる女だ。なのにこの不揃いなチョコは、一つ一つ、ちゃんと形になっている。凛が3日間もかけて、これを作ってくれた。
バレンタインチョコを渡したことは、一度もないと言っていた。その「初めて」が、今、俺の手の中にある。
俺はもう一つ、チョコを口に運んだ。今度はゆっくり味わう。表面の焦げ跡がわずかに苦い。形は六つとも全部違って、大きさも揃っていない。何回作り直して、これが完成形になったのか。焦げの苦さの数だけ、あいつの台所の夜があったはずだった。
教室に一人残された。窓際の席の椅子が、少し斜めに引かれたままになっている。凛は椅子を必ず机に入れて帰るやつだ。それを忘れるくらいの速さで、出ていった。
俺は凛の椅子を、代わりに机へ押し込んだ。それから自分が何をしているのか分からなくなって、手を離した。
凛の「もう行く」が、まだ耳に残っている。
スマホが震えて、通知が届く。凛からのLINEだった。
「......今日、変なとこ見せてごめん」
その一文に、俺はしばらく画面を見つめる。返信の文面を、3回打っては消した。「気にすんな」は素っ気なさすぎる。「泣いてただろ」は追い詰めるようで違う気がした。結局、思ったことをそのまま打つことにする。
「変なとこじゃねえよ。ありがとう、本当に」
俺がそう返信すると、既読はすぐについたが、返事はそれきり来なかった。画面を何度か確認したが、通知は増えない。トーク画面の一番下に残った自分のメッセージを、何度も読み返した。
もう一度メッセージを送ろうか迷って、結局やめておく。今は、そっとしておく方がいい気がした。スマホをポケットにしまって、俺はもう一度、鞄の中の紙袋を確かめた。深呼吸を一つしてから、椅子を立つ。
俺は鞄に紙袋をしまって、教室の電気を消す。窓の外は、もうすっかり夜の色に変わっていた。
昇降口へ向かいながら、俺は鞄の中の紙袋の重みを、もう一度確かめた。潰さないように、鞄の一番奥にしまい直す。
あの日々、凛はつぐみの家で、こっそりチョコ作りの練習をしていたんだろう。慣れない包丁を握って、何度も失敗しながら。放課後に来られない日が続いていたのも、これが理由だったのかと、今になって腑に落ちる。
靴を履き替えている途中、スマホがまた震えた。桐生からのLINEだった。
「どうだった、蒼太」
その一文だけのメッセージに、俺はしばらく返信を考える。詳しく話すべきか迷ったが、結局、簡潔に打つことにした。
「もらった。うまかった」
「それだけかよ。もっと詳しく聞かせろって」
桐生からすぐに返信が来る。俺は苦笑いしながら、もう一度スマホの画面を見つめた。
「今日はもう、勘弁してくれ」
そう返すと、桐生からは「了解、また明日詳しく聞く」というスタンプだけが返ってきた。俺はその画面を閉じて、スマホをポケットにしまう。
靴を履き替えて、俺は校門へ向かった。夜風が頬に当たって、少し冷たい。空にはもう星が二つ三つ見え始めている。
校門を出たところで、もう一度だけ、隣のクラスの窓を見上げた。明かりはもう消えている。凛はもう帰ったのだろう。
駅までの道を、街灯の下を一つ、また一つと通り過ぎながら歩いた。ポケットの中で、スマホを何度も握り直した。
家に着くと、隣の家の2階に明かりがついていた。カーテンの向こうで、影は動かない。
俺は鞄から、あの不揃いなチョコの包みを出した。残りは3粒。食べずに、机の引き出しの、書き置きのメモの隣にしまった。しまってから、1粒だけ出して食べた。明日の朝、体重計には乗らないことに決めた。




