チョコレート戦争・最終日
特訓3日目、休日の朝から、私はつぐみの家を訪れていた。窓の外はよく晴れていて、台所には朝の光が斜めに差し込んでいる。
「今日で本番用、絶対完成させよう」
つぐみがそう言って、材料を並べていく。ボウル、温度計、計量スプーン。この3日間ですっかり見慣れた道具たちが、テーブルの上に整列していた。私は昨日までの経験を思い出しながら、作業に取り掛かった。
まず、チョコを溶かす。湯煎の要領は、もう体が覚えている。鍋のお湯が沸騰しないよう、火加減を弱めに保つ。刻んだチョコがゆっくりと溶けていく様子を、私はじっと見つめていた。
次に、テンパリング。温度計を確認しながら、慎重に温度を調整していった。50度、そこから27度まで下げて、また31度まで戻す。数字の並びは、もう頭に染みついている。
「凛、昨日よりだいぶ手際いいじゃん」
つぐみがそう褒めてくれる。私は湯煎の鍋を見つめたまま、手を止めた。木べらを持つ手の角度も、二日前とは違っている気がした。
「......体で覚えた、と思う」
「それが一番いいんだよ、料理は。レシピを見ながらやるより、体が覚えた方が失敗しないものだから」
つぐみはそう言って、頷いた。私はその言葉を励みに、また作業を続ける。窓の外から差し込む光が、鍋の湯気にきらきらと反射していた。
「......今日こそは、失敗しない」
私はそう呟きながら、作業を進める。つぐみは横で見守りながら、時折アドバイスをくれた。
「うん、いい調子。焦らずゆっくり、丁寧にね」
つぐみの声に、私は落ち着いて手を動かし続けた。
テンパリングが無事に完了する。艶やかで、滑らかな液体が、鍋の中で安定していた。木べらですくうと、糸を引くように滑らかに垂れていく。この状態になるまでに、何度も分離させてしまったことを思い出す。
「よし、いよいよ次は型入れ」
私は慎重に、チョコを型に流し込んでいく。型の縁からこぼれないよう、少しずつ、少しずつ。昨日よりは、少しだけ手際が良くなっている気がした。指先の力加減も、体が覚え始めている。
「凛、手つき変わったね。最初の日と全然違う」
つぐみがそう言いながら、隣で型の並びを整えてくれる。
「......初日は、湯煎の鍋、ひっくり返しかけた」
「あったねー、それ。あたし本気で焦ったもん」
つぐみはそう言って、懐かしそうに笑った。私もその時のことを思い出して、少しだけ肩の力が抜ける。
型に流し込んだチョコを、冷蔵庫にしまう。固まるまでの時間、私たちは台所の椅子に座って、しばらく雑談をしていた。
やがて時間が経ち、型から外す作業に移る。だがそれでも完璧にはほど遠い。出来上がったチョコを型から外してみると、大きさが不揃いで、形もいびつなものが混ざっていた。
「......不格好」
私はその出来栄えに、少し落胆する。市販のものと並べたら、一目で違いが分かってしまうだろう。それでも、これは自分の手で作り上げたものだった。
「そんなことないよ。味は美味しいし」
つぐみがそう言って、一つ試食してくれた。口に入れた瞬間、つぐみの表情がふっと緩む。
「うん、美味しい。本当に、がんばったね、凛」
その一言に、私は喉の奥が小さく詰まった。目の奥が熱くなるのを、瞬きで誤魔化す。
「......本当?」
「本当だって。お世辞なんか言わないよ、あたし」
つぐみはそう言って、もう一つ手に取って口に運んだ。その様子を見つめながら、私は自分の手のひらをそっと見下ろした。何度も包丁を握って、湯煎の鍋を支えて、赤くなった指先がまだ少しじんじんしていた。
「......ありがとう、つぐみ」
私は名前を呼んで、そう伝えた。つぐみは少し照れたような顔をして、すぐに嬉しそうに笑った。
「そんな改まって言われると、こっちが照れるんだけど」
つぐみはそう言いながら、少し頬を赤くしていた。私はその反応に、また小さく笑ってしまう。
出来上がったチョコを、ラッピングする作業に移る。つぐみが、色とりどりの包装紙やリボンを取り出してきた。テーブルの上に広げられた包装紙は、ピンク、赤、金色と、どれも華やかだった。
「これとか、可愛くない? リボンつけて可愛くしよう」
つぐみがハート柄の包装紙を手に取って、私の前に広げてみせる。派手な包装を勧めてくる。私はそれを見比べながら、少し考えた。
「......可愛いと思う。でも」
「でも?」
つぐみが首を傾げる。私はもう一度、包装紙の山を見渡した。
「......これでいい」
私が選んだのは、シンプルな白い紙袋だった。飾り気のない、素朴なものだった。派手なものより、こちらの方がしっくりきた。
「地味じゃない、それ?」
つぐみが少し驚いたように聞いてくる。他の派手な包装紙と比べると、確かに見劣りするかもしれない。
「......地味でいい。飾りより、中身」
「凛らしいっちゃ凛らしいけどね」
つぐみはそう言って、白い紙袋を手に取った。指先で紙の質感を確かめるように、そっと撫でていた。
「これに、リボンだけつけるとかは?」
つぐみが妥協案を出してくる。私はしばらく考えてから、小さく頷いた。
「......リボンなら、いい」
私はそう答えて、つぐみが選んでくれた細い赤いリボンを、紙袋の口に結んだ。蝶結びの形を何度か整え直す。シンプルながらも、少し華やかさが加わる。
私はチョコを丁寧に袋に詰めていった。一つ一つ、傷つけないよう慎重に並べる。つぐみはその選択を、それ以上は否定しなかった。
私は、この不格好なチョコを見つめる。プロが作ったものとは、比べものにならない出来だった。だがこれは私が3日間かけて作ったものだった。
包装を終えて、白い紙袋に入ったチョコを見つめる。私はそれを持ったまま、つぐみに聞いてみた。
「......つぐみ。あの人は、喜んでくれると思う?」
その質問に、つぐみは即座に答えた。
「......凛が作ったってだけで、あいつは泣いて喜ぶよ」
「......大げさ」
「大げさじゃないって。あたしが保証する」
つぐみの断言に、私は少し安心する。それでも不安は完全には消えなかった。手作りだと知って、がっかりされたらどうしよう。味が口に合わなかったらどうしよう。考えても仕方のないことが、次々と頭に浮かんでは消えていく。
「......ありがとう。心強い」
私はそう言って、袋をもう一度確認した。
「渡すの、いつにするか決めた?」
つぐみがそう聞いてくる。私は少し考えてから答えた。
「......まだ、決めてない」
「まあ、当日でいいんじゃない。緊張しすぎると、ろくなことにならないし」
つぐみの助言に、私は頷いた。教室で渡すのか、放課後に呼び出すのか、まだどちらとも決めかねている。想像するだけで、心臓が早くなる気がした。
「......そうする」
「渡す時、何て言うか、決めてる?」
つぐみがそう重ねて聞いてくる。私はその質問に、また言葉に詰まった。
「......まだ、考えてない」
「早めに考えといた方がいいよ。当日テンパると、変なこと言っちゃうから」
「......分かった」
つぐみのアドバイスに、私は素直に頷く。渡す時の言葉を、頭の中で何パターンか組み立ててみたが、どれもしっくりこなかった。
「......好きだから、受け取って」は率直すぎる。「......義理だから」は嘘になる。「......これ、あげる」だけでは味気ない。何度も言葉を組み替えては、結局どれも口に出す勇気が持てなかった。
「凛、難しい顔してるけど、何考えてんの」
つぐみがそう聞いてくる。私は正直に打ち明けた。
「......何て言えばいいか、まだ分からない」
「まあ、その場の勢いでいいと思うよ。凛らしい言葉が、きっと出てくるって」
つぐみはそう言って、軽く笑った。その言葉に、私は少しだけ安心する。
台所の窓に、街灯の明かりが灯り始めている。3日間の特訓が、ようやく終わりを迎えていた。使い終わった道具を、二人で片付けていく。ボウルを洗い、温度計をしまい、テーブルを拭く。その一つ一つの動作が、この3日間の締めくくりのように感じられた。
「凛、お疲れ様。よく頑張ったね」
つぐみがそう言って、私の肩を軽く叩いた。私はしばらく、その手の感触を数えていた。温かくて、少し重みのある手だった。
「......つぐみのおかげ。本当に」
「あたしは見てただけだよ。頑張ったのは全部凛だから」
つぐみはそう言って、笑ってみせた。私はその笑顔を見ながら、この3日間のことを、もう一度振り返る。
湯煎の失敗、焦がしたチョコ、分離したテンパリング。何度も失敗を重ねながら、ようやくここまで辿り着いた。
初日、私は水を入れすぎて、湯煎の鍋からお湯が溢れさせた。二日目は、目を離した隙にチョコを焦がして、部屋中に苦い匂いが充満した。つぐみは呆れることなく、その都度冷静に手順を教え直してくれた。「大丈夫、まだ材料余ってるから」が、つぐみの口癖になっていた。
「凛、また何か作りたくなったら、いつでも呼んで」
つぐみがそう言ってくれる。私はその言葉に、素直に頷いた。この3日間で、料理という行為が少しだけ怖くなくなった気がした。
「......うん。また、お願いするかもしれない」
「いつでもどうぞ。今度はもう少し焦がさないようにしようね」
つぐみがそうからかってくると、私は少し口を尖らせた。
「......もう焦がさない」
「その意気だよ」
つぐみはそう言って、また笑った。私も、つられて小さく笑ってしまう。この3日間で、自分がこんなに笑うとは思わなかった。
帰り支度をしながら、私は白い紙袋を、そっと鞄の奥にしまい込む。潰れないよう、教科書の隙間に慎重に挟んだ。
「凛、玄関まで送るよ」
つぐみがそう言って、一緒に外まで出てきてくれる。夕方の空気は少し冷たく、吐く息がうっすらと白く見えた。
「......今日は、ありがとう。3日間、ずっと」
私がそう伝えると、つぐみは軽く手を振った。
「気にしなくていいって。友達同士なんだから」
その一言に、私はもう一度、喉の奥が詰まるのを感じた。友達という言葉が、まだ新しい響きを持っている。
「じゃあね、凛。当日、絶対頑張ってね」
つぐみはそう言って、笑顔で見送ってくれた。私は小さく頷いて、駅までの道を歩き出す。
鞄の中の紙袋の重みを、歩きながら何度も確かめた。信号待ちで一度、鞄を開けて中を覗いた。箱は動いていない。リボンも崩れていない。閉めて、また歩き出して、次の信号でもう一度開けた。




