チョコレート戦争・初日
放課後、私はつぐみの家のインターホンを押していた。門の前で一度深呼吸をしてから、指先をボタンに伸ばす。
「はーい」
インターホン越しに、つぐみの声が聞こえる。画面越しに映る自分の顔は、思ったより硬い表情をしていた。私は少し緊張しながら、用件を告げた。
「......チョコを作りたい」
声にした瞬間、恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。この一言を言うために、放課後ずっと言葉を選んでいた。
その一言だけで、つぐみが何を察したのか、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ついに来たか!! 任せて!!」
つぐみは満面の笑みで、私を家の中に招き入れる。まるでこの日を待っていたかのような反応に、私は少し圧倒されながら、靴を脱いだ。
「そんなに、待ってたの?」
「待ってたよ、ずっと。凛が自分から相談してくれる日を」
つぐみはそう言って、私の背中を軽く押した。その手のひらの温かさが、廊下の冷たい空気と対照的だった。
「バレンタイン、あと2週間しかないから」
私がそう言うと、つぐみは頼もしそうに頷いた。その頼もしさに、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「大丈夫、このあたしに任せなさい。今日からしっかり特訓開始ね」
つぐみはそう言って、私を台所に案内する。廊下を歩きながら、つぐみの家の甘い匂いが漂ってくるのに気づいた。テーブルの上には、既に板チョコと調理器具が用意されていた。準備の良さに、私は少し驚く。
「......用意、してたの?」
「凛が今日あたり来るだろうって、なんとなく分かってたから」
つぐみはそう言って、得意げに笑った。
「よく分かったね、私が来るって」
「そりゃ分かるっしょ。最近の凛のこと見てたら」
つぐみはそう言って、意味深に笑う。
「......最近の私、何かおかしかった?」
「おかしいっていうか、以前より分かりやすくなった。教室で誰かのこと目で追ってる時とか」
つぐみのその指摘に、私は目を逸らして、板チョコの箱を見つめた。図星を突かれた時の、いつものやり方だった。
「材料も、ちゃんと全部揃えといたから。板チョコ、生クリーム、型」
つぐみはそう言って、テーブルの上の道具を一つずつ指差していく。板チョコは何枚も積まれていて、失敗を見越した量に見えた。私はその準備の良さに、改めて感心した。
「まず、基本の湯煎から始めよう。板チョコを溶かして、型に流し込むだけのシンプルなやつ」
「......湯煎」
私はその言葉を、頭の中で繰り返した。聞いたことはあるが、実際にやったことはない工程だった。テレビの料理番組で見たことがある気もしたが、実際の手順までは思い出せない。
「鍋にお湯沸かして、その上にボウル乗せて、チョコ溶かすの。分かった?」
「......分かった」
私は頷いて、板チョコを細かく割り始める。四角い一枚が、指の力で簡単に割れていくのが少し面白かった。つぐみが横で見守りながら、鍋に水を入れて火にかけた。
しばらくして、お湯が沸き始める。ぐつぐつという音が聞こえてきて、私はそのタイミングで、ボウルに入れた板チョコを、直接コンロの火にかけようとした。
「ちょっと待って!」
つぐみが慌てて叫んだ。その声の大きさに、私は思わずびくりと肩を震わせる。
「湯煎!! 湯煎って言ったでしょ!!」
「......お湯の方が早いと思った」
私がそう答えると、つぐみは頭を抱えた。
「早くないじゃん! むしろ焦げるっつーの!」
「......そうなんだ」
「そうだよ! 直火は絶対禁止! これ、料理の鉄則だから」
つぐみは念を押すように、そう繰り返した。私はその剣幕に気圧されながら、頷くしかなかった。
つぐみに止められて、私は仕方なくボウルを鍋の上に乗せ直す。
「こうやって、間接的に温めるんだよ」
つぐみがそう説明してくれる。鍋の湯気がボウルの底を優しく包み込む様子を、私はじっと観察した。私はその方法で、もう一度チョコを溶かし始めた。
だが途中で焦りが出てしまう。もっと早く溶かしたいという気持ちが、火加減を強くしてしまった。木べらでかき混ぜる手も、いつの間にか速くなっていた。
ボウルの中のチョコから、微かに焦げた匂いが漂い始める。甘い香りに混じって、少しずつ苦い匂いが強くなっていくのが分かった。
「......あれ」
私がそう呟くと、つぐみが鼻を鳴らした。
「ちょっと、これヤバくない?」
つぐみがボウルを覗き込む。中のチョコは、部分的に黒く変色していた。
「チョコ、焦げてるんだけど」
つぐみが呆れたような声を出す。私はその結果に、内心落胆した。
「......火が勝手に」
「火は勝手にならないよ」
反論の言葉が、出てこない。
台所には、焦げた匂いが充満している。私はそのチョコを見つめながら、悔しさが込み上げてくるのを感じた。
「凛、火加減は自分で調整するものなんだよ。勝手に強くならないから」
つぐみがそう指摘してくる。私はその通りだと分かっていても、素直に頷けなかった。
「......分かってる」
「分かってるなら、次は気をつけよう」
つぐみはそう言って、焦げたチョコが入ったボウルを、シンクに運んでいった。
私は料理が壊滅的。それは自分でも知っている。だから今まで、料理には近づかないようにしてきた。卵を割れば殻が入り、味付けは毎回違う。母からも「凛は台所に立たなくていい」と、諦め混じりに言われたことがある。
でも今回は、失敗したくない。あの人に渡すものだから。
「凛、大丈夫? 結構落ち込んでる?」
つぐみが心配そうに顔を覗き込んでくる。私は首を横に振った。
「......大丈夫。もう一回だけ、やる」
「おお、その意気だよ、凛」
つぐみは焦げたチョコを片付けながら、新しい板チョコを取り出してくれる。包み紙を剥がす音が、静かな台所に響いた。
「板チョコ、まだいっぱい買い置きあるから、遠慮せず失敗していいよ」
つぐみがそう言って、テーブルの上の在庫を指差してみせる。私はその言葉に、少しだけ気が楽になった。
私はもう一度、湯煎の準備を始めた。
今度は、つぐみが横についていてくれた。
「焦らなくていいから。ゆっくり、様子見ながら」
つぐみの指示に従って、私は慎重に、チョコを溶かしていく。木べらを動かす速さを、さっきの半分ほどに落とした。少しずつ、なめらかな液体に変わっていくのが見えた。
「お、いい感じ」
つぐみがそう褒めてくれる。私はその言葉に、少しだけ安堵した。焦げた匂いも、もう漂ってこない。
「この調子この調子。焦らずゆっくりやれば、ちゃんとできるから」
つぐみがそう付け加えてくれる。私はその言葉を胸に刻みながら、木べらを動かし続けた。
だが型に流し込む段階で、また問題が起きる。チョコの量を計り間違えて、型からあふれさせてしまった。木べらを傾ける角度が急すぎたのかもしれない。
「......また失敗した」
私はそう呟いて、テーブルに広がったチョコを見つめた。せっかく湯煎までは成功したのに、最後の最後で台無しにしてしまった気がした。
「大丈夫大丈夫、まだ初日なんだし。焦らなくていいよ」
つぐみはそう励ましてくれたが、私の中では焦りが募っていく。バレンタインまで、あと2週間しかない。指折り数えてみると、残された練習の日は思ったより少なかった。
「凛、そんなに真剣に計算しなくていいから」
私の様子に気づいたのか、つぐみがそう声をかけてくる。指を折る手を、優しく止めるように。
「......してない」
「してたって。指、動いてたし」
つぐみにそう指摘されて、私は慌てて手を止めた。
「......明日も、やる」
私がそう宣言すると、つぐみは頷いた。
「明日もちゃんとやるよ。凛が納得できるまで、付き合うから」
その言葉に、私は思わず頭を下げた。深く下げすぎて、髪が顔にかかるのも気にならなかった。
「......お願い」
つぐみは私のその様子を見て、少し驚いたような顔をした。
「凛、そんなに真剣になるの、初めて見た」
つぐみの指摘に、私は何も言い返せなかった。木べらを持つ手を、思わず見下ろす。
「今まで、何やってても淡々としてたのに。今日は本当にもう全然違う」
「......そう見える?」
「見える見える。目つきからして全然違う。真剣そのもの」
つぐみはそう言って、少し楽しそうに笑った。私はその指摘に、少し照れくさくなる。
「......今までは、失敗しても別に平気だった」
私は少し考えてから、そう続けた。
「今回は、平気じゃない?」
「......うん。平気じゃない」
その言葉に、つぐみは満足そうに頷いた。
「それがまさに恋ってやつだよ、凛」
「......知らない、そんなの」
私はそう言い張ったが、耳が熱くなっているのが自分でも分かった。つぐみは追及せず、ただ楽しそうに私を見つめている。
台所の片付けをしながら、ボウルの底にこびりついた焦げを爪でこすった。落ちない。スポンジを裏返して、固い方でこすった。それでも落ちない。つぐみの家のボウルを、私は今日、一つ駄目にしたかもしれない。弁償を申し出るべきかどうか、洗いながらずっと考えていた。
それでも、諦める気にはならなかった。
「凛、また明日ね」
玄関先で見送ってくれるつぐみに、私は小さく頭を下げた。
「......今日は、本当にありがとう」
「いいって、気にしないで。明日も付き合うから」
つぐみはそう言って、笑顔で手を振ってくれる。私はその笑顔に背中を押されるように、玄関を出た。
窓の外はもう暗くなっていた。私はつぐみの家を出て、駅までの道を一人で歩く。街灯の下を通るたびに、自分の影が伸びたり縮んだりした。
スマホが震えて、つぐみからのLINEが届く。
「今日は本当にお疲れ! 明日も頑張ろうね」
私はその一文に、少し安心する。今日一日の失敗の数々が、その短いメッセージで少しだけ軽くなった気がした。画面を何度か読み返してから、返信を打つ。
「......ありがとう。明日もよろしく」
既読はすぐについて、スタンプが一つ返ってきた。猫が親指を立てているスタンプだった。
手を鼻に近づけると、焦げた匂いがかすかに残っていた。石鹸で2回洗ったのに。
夜道を歩きながら、私はコートのポケットの中で、指を折って数えた。今日駄目にしたチョコが2枚分。バレンタインまで、あと10日。あと何回失敗できるのかの計算は、途中でやめた。
駅の明かりが、少しずつ近づいてくる。




