カーディガン
1月も終わりに近づいて、寒さが本格的になっていた。教室でも、コートを着たまま授業を受ける生徒が増えている。窓ガラスには朝方の結露が白く残り、廊下を歩く生徒の吐く息が、うっすらと白く見えた。
昼休み、いつも通り凛と弁当を広げる。凛は制服の上にカーディガンを羽織っていたが、それでも寒そうに肩をすくめていた。
「秋月、寒いのか」
「......少し。今日、特に冷える」
凛はそう言って、両手をこすり合わせる。指先が心なしか赤く見えた。俺は少し考えてから、自分のカーディガンを脱いで、凛の肩にかけた。
「......いい、自分のがある」
凛が慌てて断ろうとする。だが俺はそのままにしておいた。
「風邪ひくぞ。この前俺が風邪ひいた時、お前が休日返上で看病してくれただろ。お返しだ」
「......あれとこれは違う」
「全く同じだよ」
俺がそう言い切ると、凛はそれ以上何も言い返せなくなった。カーディガンを羽織ったまま、少し居心地悪そうにしている。周りの生徒たちが、ちらちらとこっちを見ているのに気づいたのか、凛の耳が少し赤くなっていた。
「......そんなに見るなよ」
俺が周りに向かって小声でそう言うと、視線はすぐに逸れていった。凛はその間、ずっと俯いたままだった。
「......ありがとう」
小さくそう呟いて、凛はカーディガンの袖に軽く触れた。俺はその仕草を見ながら、自分の判断がそれほど間違っていなかったことに、少し安心する。
しばらくして、教室の入り口からひなたが入ってきた。
「そうくん、遊びに来たよ!」
ひなたはいつも通りの明るい声で近づいてくる。手には小さなお菓子の袋を持っていた。だが俺のカーディガンを羽織った凛を見て、一瞬だけ目を伏せた。
それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの笑顔に戻る。ひなたはお菓子の袋を机の上に置いて、俺の隣の椅子を借りて座った。
「そうくん、凛ちゃんに優しいね!」
「寒そうだったから」
俺がそう答えると、ひなたは何か納得したように頷いた。
「そうくんは、昔からそうだよね」
ひなたはそう言って、少し遠い目をした。窓の外を眺めるその横顔には、いつもとは違う穏やかさがあった。
「......優しいところ、好きだよ」
その一言に、返す言葉が喉の手前で止まった。だがひなたの声色は、あの告白の時とは違う軽やかさを帯びていた。
「......ひなた」
「何?」
「ありがとな」
俺がそう言うと、ひなたは不思議そうな顔をした。
「何が?」
「別に、色々」
俺がそう誤魔化すと、ひなたは笑いながら俺の肩を軽く、二度、叩いた。
「そうくん、変なの」
ひなたはそう言って、また明るく笑う。その笑顔に、俺はしばらく見とれてしまう。子供の頃から変わらない、屈託のない笑い方だった。
凛はその様子を、少し複雑そうな顔で見ていた。箸を持つ手が、一瞬止まっている。俺はその変化に気づいたが、どう声をかけていいか分からなかった。
「ひなた、今日何しに来たんだ」
俺がそう聞くと、ひなたは思い出したように手を叩いた。
「あ、そうそう。今度のバレンタイン、クラスでチョコ交換会やろうって話が出てて」
「チョコ交換会?」
「友チョコ的な感じ。女子何人かで持ち寄って、みんなで交換するの。楽しそうでしょ?」
ひなたはそう言って、持ってきたお菓子の袋を軽く振ってみせた。
「凛ちゃんも一緒に参加する?」
ひなたがそう聞くと、凛は少し考える素振りを見せた。
「......考えておく」
「ぜひ参加してよ! 楽しいと思うから」
ひなたはそう言って、明るく誘い続けた。両手を合わせて拝むような仕草までしている。
「参加する場合、何すればいいんだ」
俺がそう聞くと、ひなたは指を折りながら説明を始める。
「友達同士でチョコ交換するだけだよ。手作りでも市販でもいいし、とにかく気軽な感じ。去年もクラスの半分くらい参加してたよ」
「手作り、縛りとかないんだな」
「ないない。あくまで気軽に楽しむのが目的だから。つぐみんも去年、市販のやつ配ってたし」
ひなたはそう言って、去年の様子を思い出すように笑った。
ひなたの説明に、凛は少し考え込むような顔をした。膝の上で、両手の指を絡めている。
「......手作り、私には難しいかも」
「凛ちゃんなら絶対大丈夫だよ、応援するから! 簡単なレシピとかもあるし」
ひなたはそう言って、明るく背中を押す。凛はその勢いに押されながらも、まんざらでもなさそうな顔をしていた。俺はその二人のやり取りを、少し離れた場所から見守っていた。
「じゃあ、そうくん、また放課後ね!」
ひなたはそう言って、お菓子の袋を鞄にしまい、教室を出ていった。その足取りは軽く、いつもと変わらない様子だった。俺はその背中を見送りながら、さっきの「好きだよ」という一言を、まだ頭の中で反芻していた。
あの告白の日から、ひなたの俺への接し方は何も変わっていない。それがどこか不思議で、同時にありがたくもあった。
「......ひなたちゃん、変わったね」
凛がぽつりと呟く。
「そうかな」
「......前より、素直になった気がする」
「そうかもな。まあ、色々あったからな」
俺がそう答えると、凛はしばらく黙っていた。
「......うん。何があったかは、知らないけど」
凛はそう言って、少し遠慮がちに視線を落とした。ひなたと俺の間にあったことを、凛には詳しく話していない。桐生とつぐみは知っているが、凛にはまだ話す機会がなかった。
「......聞いても、いい?」
凛がそう切り出しかけたが、すぐに首を振って言葉を止めた。
「......ううん、やっぱりいい」
凛はそう言って、視線を弁当箱に戻した。俺はその様子を見ながら、いつか話す日が来るのかもしれないと思った。
凛の指摘に、俺は少し考える。
「秋月、寒くないか、そのカーディガンで」
「......暖かい。ちょうどいい」
凛はそう言って、袖に顔を少し埋めた。俺はその横顔から、視線をなかなか外せなかった。
「借りたままでいいのか」
「......今日だけ。明日、洗って返す」
凛はそう言い切って、また卵焼きに箸を伸ばした。俺の弁当箱を覗き込んで、いつも通り「一つだけ」と呟きながら卵焼きを二切れ取っていく。カーディガンの袖が邪魔になったのか、途中で片方の袖を軽くまくり上げていた。
「そんなに食いにくいなら、脱げばいいだろ」
「......これは、これでいい」
凛はそう言い張って、片手で袖を押さえながら箸を動かし続けた。その不器用な仕草に、俺はしばらく見入ってしまう。
昼休みが終わって、午後の授業が始まる。俺は自分の席で、窓の外の冬景色を眺めながら、この昼休みの出来事を振り返っていた。校庭の隅に積もった雪が、まだ溶けきらずに残っている。
数学の公式を写す手が、何度か止まりかけた。止まるたびにノートの数字がひとつずれて、消しゴムをかけた。5行写すのに、いつもの倍の時間がかかった。
放課後、教室を出る前に、凛が声をかけてきた。
「藤宮くん、今日、真っ直ぐ帰る?」
「ああ、帰る」
「......じゃあ、一緒に」
凛はそう言って、鞄を持ち直した。俺はその隣に並んで、教室を出る。
廊下を歩きながら、俺は凛の羽織ったカーディガンをちらりと見た。俺の物なので丈が長く、袖口から指先だけが覗いていた。
「そのカーディガン、大きくないか」
「......ちょうどいい」
凛はそう言い張ったが、袖を何度も折り返す仕草からは、多少の大きさは感じているようだった。歩くたびに袖が手の甲まで覆ってしまい、その都度めくり直している。
「無理してるだろ、それ」
「......してない」
凛はそう言い張ったが、また袖をめくり直していた。その様子を横目で見ながら、俺は思わず口元が緩むのを堪えた。
昇降口で靴を履き替えていると、凛がふとこっちを見た。
「カーディガン、また明日返すから」
「別に急がなくていいけどな」
「......いい。返す」
凛はそう言い切って、少し先を歩き出した。カーディガンの袖から覗く手が、寒さでかじかんでいるのが見えた。指先を軽く握ったり開いたりして、血の巡りを確かめているようだった。
「秋月、手袋は」
「......今日、忘れた。家に置いてきた」
「相変わらずだな」
「......うるさい」
凛は少し拗ねたようにそう言ったが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。俺はポケットの中の自分の手袋を、片方だけ差し出す。
「片方だけでも、使うか」
「......いい。自分で我慢する」
凛はそう言って首を振ったが、その声には迷いが混じっていた。俺はその横顔を見ながら、駅までの道を並んで歩き続けた。
夕方の空は、もう薄暗くなり始めている。街灯がぽつぽつと灯り始め、二人分の足音だけが、静かな住宅街に響いていた。
「寒いなら、ポケットに手入れとけよ」
俺がそう言うと、凛は素直にカーディガンのポケットに両手を入れた。
「......温かい」
凛がぽつりと呟く。ポケットの奥に手を沈めたまま、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。俺はその横で、自分の手をコートのポケットに突っ込んだ。指先が少し冷たかったが、それを口には出さなかった。
「秋月、駅まであとどれくらいだ」
「......いつも通り。10分くらい」
凛はそう答えて、少し歩調を緩めた。俺もそれに合わせて、歩く速さを落とす。街灯の明かりが、二人の影を路面に長く伸ばしていた。
駅前の明かりが見えてくる頃には、空はすっかり夜の色に変わっていた。改札の前で、凛が足を止める。
「......今日、ありがとう。カーディガン」
「別に、大したことじゃねえよ」
俺がそう答えると、凛は小さく頷いて、改札の中へ入っていった。
家までの道を、白い息を吐きながら歩いた。カーディガンを1枚貸しただけの日だった。そのはずなのに、カーディガンの入っていない鞄が、行きと同じ重さに思えなかった。
家に着く頃には、指先がすっかり冷え切っていた。玄関のドアを開けると、母さんの声が台所の奥から聞こえてくる。
「おかえり。今日は随分と遅かったね」
「まあ、色々あってな」
俺はそう答えて、靴を脱いだ。今日一日のことを、母さんに詳しく話すつもりはなかった。
「色々って何よ」
「色々は色々だ」
台所に逃げ込もうとしたところで、母さんがこっちの顔をじっと見た。それから何も言わずに、にやりと笑った。何も言われない方が、何か言われるより居心地が悪かった。




