窓の外の雪
1月下旬、朝から空がどんよりと曇っていた。3限目の授業中、教室の窓の外がふと明るくなる。
視線を向けると、白いものが静かに舞い落ちていた。今年初めての雪だった。教室のあちこちから、小さなどよめきが起こる。
隣の席の凛を見ると、いつもは表情の乏しいはずのその顔が、珍しく大きく目を見開いている。窓の外の雪を見つめる横顔が、子供のように輝いていた。授業の内容も忘れたように、シャープペンを持つ手が止まっている。
俺はその横顔から、しばらく目を離せなかった。先生の声が、遠くの雑音のように聞こえてくる。
「......何」
凛が俺の視線に気づいて、こっちを見てくる。俺は慌てて誤魔化そうとしたが、うまい言葉が見つからなかった。
「雪、好きなのか」
結局、そのまま聞いてしまう。凛は少し考えるような顔をした。
「......嫌いじゃない。静かだから」
その答えに、俺はなんとなく納得する。凛らしい理由だと思った。周りの音が全部吸い込まれていくような、あの独特の静けさが、確かに凛の雰囲気に似ている気がした。
授業が終わるまで、凛は何度も窓の外を気にしていた。降り続く雪は、まだ薄く校庭を白く染めている程度だったが、それでも珍しい光景であることに変わりはない。ノートを取る手は動いていたが、行の途中で二度、文字が途切れていた。
休み時間になると、教室のあちこちで生徒たちが窓に張り付いて雪を眺めていた。桐生も興奮した様子で、窓際に駆け寄っている。
「おい見ろよ、雪だ雪! 積もるかな、これ」
桐生がそう騒ぐのを、俺は自分の席から眺めていた。教室の後方では、女子たちが「写真撮ろうよ」と盛り上がっている声も聞こえる。凛はそんな教室の喧騒をよそに、静かに窓の外を見つめ続けている。
「秋月さんも見に来なよ!」
桐生が凛にも声をかけた。凛は少し戸惑いながらも、席を立って窓際に歩み寄る。俺もその後に続いた。
窓越しに見る雪は、教室の照明を反射してきらきらと光っていた。校庭に降り積もる様子を、生徒たちが口々に感想を言い合っている。
「秋月、雪、そんなに珍しいか」
俺がそう聞くと、凛は小さく頷いた。
「......この辺り、あんまり降らないから」
「そういえば、そうだったな」
「......前に住んでたところは、もっとよく降ってた」
凛がぽつりと付け加える。転校の話が出るたび、俺は少し慎重になった。
「そうなのか。どのくらい違うんだ」
「......冬はほとんど、いつも雪が積もってた。今と違って」
凛はそう言いながら、窓の外の校庭を見つめ続けた。俺たちの住む地域では、年に数回あるかないかの雪だった。それだけに、こうして降っているところを見られるのは、貴重な機会だった。
放課後、教室を出る前に、俺は思い切って提案した。
「秋月、校庭、少し歩いてみないか」
「......雪、積もってるかな」
「薄っすらだけど、積もってるみたいだぞ」
凛はその提案に、少し嬉しそうな顔をした。それまで浮かべていた無表情が、わずかに緩む。
「......歩いてみたい」
二人で校庭に出ると、地面には薄く雪が積もっていた。踏むと、シャリッという小さな音がする。空気は冷たく澄んでいて、吐く息が白く浮かんでは消えた。
凛は珍しく、子供のような足取りで雪の上を歩き始めた。その足跡が、白い地面にくっきりと刻まれていく。振り返っては自分の足跡を確認し、また前に進む。その動作を、凛は何度も繰り返していた。
「秋月、楽しそうだな」
「......楽しい。雪、あんまり見る機会ないから」
凛はそう言いながら、屈み込んで雪を手のひらに受け取った。しばらくそれを見つめてから、小さく呟く。
「......すぐ消える」
凛の手のひらの中で、雪がゆっくりと溶けていく。透明な水滴に変わっていく様子を、凛は名残惜しそうに見つめていた。俺はその様子を見ながら、口を開いた。
「また降るさ」
「......そうだといいね」
凛はそう言って、濡れた手のひらをコートで拭った。指先がすっかり赤くなっているのが見える。
「手袋、してこなかったのか」
「......今日は、忘れた」
「相変わらずだな」
「......うるさい」
凛はそう言い返しながらも、拭った手をポケットに突っ込んだ。
俺たちは並んで、校庭をもう少し歩いた。誰も踏んでいない部分を選んで、新しい足跡を残していく。
「秋月、こういう雪道歩くの、好きか」
「......好き。誰も歩いてない場所を、最初に歩く感じが」
「変わってるよな、それ」
「......そうかな。普通だと思うけど」
その答えに、俺は少し意外な一面を見た。いつもの淡々とした凛からは想像できない、子供っぽい理由だった。
「秋月、意外と冒険好きなんだな」
「......そうでもない。ただ、真っ白なところに、自分の跡を残せるのが、なんとなく好き」
その言葉に、俺は何か大切なものを聞いた。転校を繰り返してきた凛にとって、跡を残すという行為には、他の誰とも違う重みがあるのかもしれない。
「跡、残るのも、悪くないよな」
「......うん」
凛はそう言って、また自分の足跡を振り返った。二人分の足跡が、白い雪の上に並んで続いている。
俺は雪を一つかみ、丸めて固めてみた。手のひらの中で、少しずつ形を保っている。両手で軽く押し固めると、綺麗な球体になっていった。
「秋月、これ見ろよ」
俺がそう言って雪玉を見せると、凛は少し興味深そうに近づいてきた。
「......綺麗な形」
「作ってみるか」
俺がそう提案すると、凛は少し戸惑いながらも、興味を隠しきれない様子で頷いた。手のひらに雪をすくって、俺の真似をするように丸め始める。だがなかなか形が整わず、途中で崩れてしまった。
「......難しい」
「もっと優しく、あんまり力入れすぎるとダメだ」
俺がそうアドバイスすると、凛はもう一度挑戦した。今度は少し形になったものの、いびつな仕上がりだった。
「......まあまあ」
凛はそう言って、自分の雪玉を見つめた。俺のものと比べると不格好だったが、それでも満足そうな顔をしていた。
「秋月、寒くないか」
「......平気。あなたは?」
「俺も、まあ平気だ」
俺たちはそう言い合いながら、また少し歩き出す。雪はまだ、静かに降り続けていた。二人分の呼吸が、白く浮かんでは風に流されていった。
「雪、この量だと、電車とか止まったりしないよな」
「......分からない。積もるほど降らないと思うけど」
凛はそう言いながら、空を見上げた。灰色の雲から、雪がまだ絶え間なく落ちてくる。睫毛に雪の粒が一つ乗って、瞬きと共に消えた。
「もし積もったら、明日、学校休みになったりしてな」
「......それは、ちょっと期待してる」
凛のその一言に、俺は思わず笑ってしまう。普段はあまり冗談を言わない凛の、珍しい発言だった。真顔でそう言うところが、余計に面白かった。
「秋月でも、そういうこと考えるんだな」
「......普通に考える。休みは嬉しい」
凛はそう言い切って、また雪の上を歩き出した。新しい雪のところをわざわざ選んで踏んでいた。
「もし休みになったら、何する予定だ」
俺がそう聞くと、凛は少し考え込む素振りを見せた。
「......家で、ゆっくりする。あなたは?」
「俺は......溜まってる課題、片付けるかな」
「......真面目」
凛はそう言って、少しからかうように笑った。
「今日、付き合ってくれてありがとうな」
俺がそう言うと、凛は少し驚いたような顔をした。
「......こっちこそ。誘ってくれて、ありがとう」
その返事に、俺は言葉を選びながら続ける。
「また雪降ったら、誘っていいか」
「......うん。いつでも」
凛はそう答えて、また前を向いて歩き出した。その一言が、俺の中でしばらく響き続けていた。
「次の雪、いつ降るかな」
俺がそう呟くと、凛は空を見上げた。
「......分からない。でもまた降ると思う」
「そうだな。冬はまだ長いし」
俺がそう答えると、凛は小さく頷いて、また歩き出した。雪はまだ、静かに二人の頭上に降り注いでいた。
校庭の隅にある大きな木の下で、俺たちは足を止めた。木の枝にも、雪が薄く積もっている。
「この木、随分大きいな」
「......うん。前から気になってた」
凛はそう言って、木を見上げる。俺もその視線を追って、雪の積もった枝を眺めた。枝の隙間から見える空は、まだ灰色の雲に覆われている。
「この木、何の木だろうな」
「......分からない。でも季節ごとに表情が違う」
「そんなに、じっくり見たことあるのか」
「......春は花が咲いて、夏は葉が茂って、秋は色づく。それを、教室の窓から見てた」
凛はそう言って、木を見上げたまま呟いた。俺はその横顔を見ながら、この木が凛にとって何かの目印になっているのかもしれないと思った。
しばらく無言の時間が続いた後、凛が不意にこっちを見た。
「藤宮くん」
「......何」
「今日、本当に楽しかった」
凛はそう言って、小さく微笑んだ。その笑顔に、俺はしばらく見とれてしまう。
「俺も、すごく楽しかった」
俺がそう答えると、凛は満足そうに頷いた。木の枝から、小さな雪の塊がぱらぱらと落ちてきて、二人の頭上に舞い散る。
「寒くないか、そろそろ」
俺がそう聞くと、凛は首を横に振った。
「......まだ、大丈夫。もう少しだけ、ここにいたい」
凛はそう言って、また木を見上げた。俺もその隣で、同じ景色を眺め続ける。しばらくの間、二人とも何も言わなかった。
「そろそろ、戻るか」
俺が先にそう切り出すと、凛は少し名残惜しそうに小さく頷いた。
二人で並んで、教室の方へ戻り始める。振り返ると、二人分の足跡が、白い雪の上に並んで続いていた。途中で何度か、重なり合っている箇所がある。
「......足跡、消えちゃうね。昼には」
凛が同じ方を見て、ぽつりと言った。それから何かを打ち消すように首を振って、先に歩き出した。マフラーに埋めた口元は見えなかった。
昇降口に着く頃には、雪はさらに強く降り始めていた。傘を持っていない生徒たちが、慌てて校舎の中に駆け込んでいく。俺たちは急がず、その様子をゆっくり眺めながら歩いた。
「明日も、降るといいな」
俺がそう言うと、凛はまた小さく頷いた。それから鞄を開けて、中から手袋を取り出した。左右を確かめて、片方だけはめて、もう片方は手に持ったまま歩き出した。なぜ片方だけなのかは、聞きそびれた。




