一月の教室
風邪が完全に治って数日、俺の日常は元通りに戻っていた。弁当を作り、学校へ行き、隣の席で昼を食べる。ただ、会話が途切れた時に、どちらも慌てて次の話題を探さなくなった。沈黙のまま食べていられる。それが看病の前と後で変わったことだった。
昼休み、いつも通り弁当を広げる。凛が覗き込んでくる時、髪の先が俺の袖に触れた。本人は気づいていない。今日のおかずは生姜焼きと出し巻き卵だ。唐揚げが続いた反動で、久しぶりに献立を変えてみた。蓋を開けた瞬間、生姜の香りがふわりと広がって、凛の視線がすぐにそっちへ向いた。
「......今日は生姜焼きなんだ」
凛がそう呟いて、箸を持ったまま待っている。俺は蓋を全部開けてから聞き返した。
「唐揚げじゃなくて残念だったか」
「......別に。生姜焼きも好き」
凛はそう言って、視線をわずかに逸らした。だが箸は迷わず出し巻き卵に伸びている。俺は苦笑いしながら、弁当箱を凛の方に少し寄せた。
「そんなに見なくても、ちゃんとやるから」
「......見てない」
凛はそう言い張ったが、視線はまだ弁当箱の上を彷徨っていた。箸を持つ手も、なぜか出し巻き卵の方に近づいていく。
その様子を、通りがかったつぐみが見て、足を止める。手にした購買のパンを片手に持ったまま、興味津々な顔でこっちを覗き込んできた。
昼休みの教室は、いつも通りの喧騒に包まれている。桐生が誰かと大声で話す声、女子グループの笑い声、机を移動させる音。その中で、俺と凛の周りだけ、少し違う空気が流れていた。
「ちょっと、あんたたち距離バグってるよ」
つぐみは腕を組んで、俺たちの間の空間をじろじろと観察していた。凛は慌てて姿勢を正した。
「......普通の距離」
「普通の距離で肩触れてないから、それ」
つぐみの的確な突っ込みに、凛は何も言い返せなくなる。俺もその指摘に、密かに動揺していた。
「白河、何もそこまで言わなくても」
俺がそう言い返すと、つぐみは大げさに胸を押さえながら、首を振ってみせた。
「言うよ。あんたらのじれったさ見てると、あたしの寿命が縮む」
俺は思わず身構えながら、そう聞き返した。
「じれったいって、何が」
「何がじゃないでしょ、自分で分かってるくせに」
つぐみはそう言って、呆れたように肩をすくめた。俺は誤魔化すように、弁当箱に視線を戻す。
「秋月、出し巻き、もう一切れやるよ」
俺は箸で切り分けた一切れを、凛の弁当箱の蓋に乗せた。湯気はもうとっくに消えていたが、それでも出汁の匂いがふわりと漂う。
「......いいの?」
「いいから、食え」
俺がそう言うと、凛は嬉しそうに出し巻き卵を口に運んだ。咀嚼しながら、満足そうに目を細めている。
「......美味しい」
「そりゃ良かった」
俺がそう答えると、凛はもう一度、こっちを見て小さく頷いた。頬に残った出汁の味を確かめるように、口元をわずかに動かしている。その様子を、つぐみがまだじっと見ている。
「はいはい、ごちそうさま。あたし退散するわ」
つぐみはそう言って、笑いながら自分の席へ戻っていった。スカートを翻す後ろ姿が、あっという間に人混みに紛れる。俺と凛は、それを見送りながら、なんとなく気まずい沈黙を共有する。
「......つぐみ、余計なこと言う」
「まあ、間違ったこと言ってねえけどな」
俺がそう答えると、凛は少し驚いたような顔をした。箸の動きが一瞬止まって、そのまま固まる。
「......認めるんだ」
「認めるっていうか、事実だろ」
俺の返答に、凛はそれ以上何も言わず、また弁当に視線を戻した。だが生姜焼きを口に運ぶ箸の動きが、心なしか忙しなかった。頬に浮かんだ赤みは、教室の暖房のせいだけではないはずだった。
放課後、教室に一人残っていると、桐生が珍しく静かな足音でやってきた。
「蒼太、まだ帰らねえのか」
「秋月、今日は用事があるみたいで、先に帰った」
「そうか。ちょうどいい、二人で話そうぜ」
桐生はそう言って、俺の前の席に逆向きに座る。椅子の背もたれを抱きかかえるようにして、身を乗り出してきた。
「何の話だよ」
桐生は前置きなく、単刀直入にそう切り出した。
「決まってるだろ。お前、いつ告白すんの」
その直球な問いに、俺は言葉に詰まった。持っていたシャーペンを、思わず机に落としそうになる。
「......まだ、タイミングがわかんねえ」
正直にそう答えると、桐生は呆れたように息を吐いて、椅子の背もたれに肘をついた。
「タイミングなんか待ってたら一生来ねーぞ」
「そう言われても」
俺は歯切れの悪い返事をしながら、視線を泳がせた。窓の外を通り過ぎる部活帰りの生徒たちの声が、やけに遠く聞こえる。
「お前の鈍感さから考えて、自分から動かないと無理だろ、絶対」
桐生の指摘は、痛いところを突いていた。俺は反論できず、机に肘をついて頭を抱える。
「分かってるよ、それは」
「分かってるなら、動けよ」
桐生はそう言って、俺の背中を軽く叩いた。
「秋月さんだって、待ってるかもしれねえだろ」
桐生の言葉が、思ったより深く胸に刺さった。その一言に、俺はふと、正月の神社で引いたおみくじのことを思い出す。恋愛運、「自ら動け。機を逃すな」。あの時は半信半疑で読んだだけの言葉が、今になって重みを増していた。
「......おみくじにも、同じこと書いてあったな」
「マジか。神様まで催促してんじゃねえか」
桐生はそう言って、大きく笑った。俺はその笑いに、少し気が抜ける。
「大吉引いた秋月さんも、何か書いてあったんじゃねえの」
「ああ、あったな。でも見せてもらえなかった」
桐生は驚いたように目を丸くした。
「なんでだよ、気にならねえのか」
「気になるに決まってるだろ。でも秘密だって言われたら、無理には聞けねえよ」
俺がそう答えると、桐生は腕を組んで唸った。眉間に皺を寄せて、まるで自分事のように悩んでいる。
「でも、いざ動くってなると、何をどうすればいいのか分からねえんだよ」
「そんなの、好きだって言うだけだろ」
桐生はあっさりとそう言い放った。
「言うだけって言うけど、それが一番難しいんだよ」
俺がそう反論すると、桐生は少し考え込むような顔をした。窓の外の夕陽が、二人の影を長く伸ばしている。
「まあ、確かにな。俺も告白した経験ねえから、偉そうなこと言えねえけど」
「お前が言うと、逆に説得力ねえな」
俺がそう茶化すと、桐生は肩をすくめた。
「うるせえな。だがな、経験なくても分かることはある。お前と秋月さんを見てりゃ、誰だって分かるんだよ、この二人は付き合った方がいいって」
「他人事だと思って気楽に言うなよ」
「他人事じゃねえよ、クラスメイトとして責任感じてんだよ、こっちも」
桐生は真剣な顔でそう言いながら、腕を組んだ。窓から差し込む夕陽が、その横顔を橙色に照らしている。
「その責任感じてるクラスメイト、初詣のおみくじ何だったっけな」
「い、今それ関係ねえじゃん!」
「恋愛運『今年も縁なし』って読み上げてたよな、白河が。けっこうな声で」
「あれはおみくじが壊れてたんだって!」
桐生はムキになったように声を張った。それから急に声のトーンを落として、俺を指差してくる。
「いいか、俺のことはいいんだよ。縁がないのは今年だけって書いてあった。お前は違うだろ。縁があるのに動いてねえだけだろ」
「おみくじの解釈が都合よすぎるんだよ」
俺は苦笑いした。だが桐生の指差した先が、妙に胸に残った。
「屁理屈だな、それ」
「屁理屈でもなんでもいいから、聞け。お前が動かなかったら、いつまでも今のままだぞ」
桐生の言葉に、俺は反論できなかった。机の上の消しゴムを意味もなく転がして、掴んで、また転がした。
「うるせえ、応援してんのは本気だぞ」
桐生はそう言って、俺の肩を強く叩いた。手のひらの熱が、シャツ越しにもはっきり伝わってくる。俺はその勢いに、少しよろける。
「ありがとよ、一応」
「一応で片付けるなよ。ちゃんと感謝しろ」
桐生はそう言って、笑いながら立ち上がった。椅子を机の下にきちんとしまい込む仕草に、律儀な一面がのぞく。
「じゃあな、蒼太。頑張れよ」
「おう」
俺はそう答えて、桐生の背中を見送った。教室のドアが閉まる音が、やけに大きく響く。教室には、また一人になる。廊下を遠ざかっていく足音が、次第に静けさに溶けていった。
窓の外は、もう夕暮れの色に染まっていた。誰もいなくなった教室に、机と椅子の影だけが長く伸びている。俺は自分の机に座ったまま、桐生の言葉を何度も反芻していた。
いつ動けばいいのか。何をどう言えばいいのか。ノートの端に意味のない線を引いて、消して、また引いた。
教室の壁掛け時計の針が、かちりと音を立てて進んだ。放課後の校舎は、部活動の掛け声や吹奏楽部の音が、遠くからかすかに響いてくる。
いつか、じゃなくて、いつ。
俺はスマホの画面を点けて、また消した。それを何度か繰り返してから、鞄の中にしまう。凛とのトーク画面を開こうとして、結局開けなかった自分に、少し呆れる。
鞄に手を伸ばして、あの猫のキーホルダーに触れる。金具の冷たさが、指先から伝わってきた。この冬の間に積み重ねてきたものを、俺はこれからどうしていきたいのか。
クリスマスのマフラー。大掃除の日の椅子の一件。初詣での手繋ぎ。風邪の看病と、あの書き置き。一つ一つは些細な出来事でも、積み重なった今、無視できない重さになっている。
スマホを取り出して、凛とのトーク画面を開く。今日の会話の履歴が、そこにずらりと並んでいた。「今日は生姜焼きなんだ」という短い一文。その下に凛の「......豚こまじゃなくてロース?」。細かいところを聞いてくるやつだ。俺はしばらく、その履歴を上から下まで読み返した。スクロールする親指が、途中で何度か止まった。
鞄を持って立ち上がり、教室を出る。廊下の窓から見える夕焼けが、やけに鮮やかだった。橙から紫へ、色が少しずつ移り変わっていくグラデーションが、窓ガラス越しに広がっている。
昇降口で靴を履き替えながら、俺はもう一度スマホを取り出した。凛からの新しいメッセージは届いていない。文字を打ちかけて、消した。
校門を出ると、冷たい風が頬を撫でた。1月の空気は澄んでいて、遠くの山並みまではっきり見える。
鞄の中のキーホルダーが、掌に小さく当たった。俺はそれを取り出さないまま、鞄の口を閉めて歩き出した。家の方向の空に、一番星がもう出ていた。今日は星が見える日だった。




