書き置き
目が覚めると、部屋の中は薄暗くなっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、もう夕方であることを教えてくれる。喉の渇きを覚えて、俺はゆっくりと瞼を開いた。
体を起こしてみると、頭の重さがだいぶ軽くなっていた。熱も引いてきているようだ。体の節々の痛みも、いつの間にか消えている。
リビングに行くと、凛の姿はもうなかった。テーブルの上に、メモ用紙が一枚置いてある。
「......早く治して。明日の弁当がないと困る」
その一文を読んで、俺は思わず笑ってしまう。ボールペンの跡がわずかに凹んでいて、力を込めて書いたことが分かった。何度か書き直した形跡もあって、最初はもっと違う言葉だったのかもしれない、と想像してしまう。
「なんだそれ」
誰もいない部屋で、俺は一人でそう呟いた。凛らしい、素直じゃない気遣いの表れだった。「早く治して」の一言に、看病してくれた本人の言葉にしては、ずいぶんと不器用な優しさが詰まっている。
テーブルの上には、ポカリの新しいペットボトルも置かれている。俺はそれを一口飲みながら、書き置きの文字をもう一度眺めた。
字が綺麗だ、と思う。几帳面で、癖のない字だった。凛の性格がそのまま表れているような筆跡だった。教科書の隅にでも書きそうな、丁寧すぎるくらいの字。授業中に見るノートの字と、たぶん同じ字だ。
俺はそのメモを、光にかざすようにして眺めた。裏写りするほどの筆圧で書かれている。よく見ると、「困る」の前に一文字ぶん消した跡があった。何と書いて消したのか、紙を斜めにしても読み取れない。俺はしばらく、その消し跡の方ばかり眺めていた。
スマホを手に取って、凛にLINEを送る。
「ありがとう、看病」
既読はすぐについて、返事が来た。
「......早く寝て」
その素っ気ない返信を、俺はもう一度読み返した。たった五文字なのに、何度も見返してしまう。
桐生からもLINEが来ていたことに気づいて、返信を確認する。
俺は既読をつけて、桐生からのメッセージを読み返した。
「おい、体調どうだ」
「だいぶマシになった。多分明日には行ける」
「それは良かった。ところで秋月さんが看病に来たって聞いたぞ」
その一文に、俺は少し身構える。桐生の耳の早さは、いつも通りだった。学校中の噂話が全部集まってくるんじゃないかと疑うくらい、情報の入手経路が速い。
俺はスマホを持つ手に、思わず力を込めた。
「誰から聞いたんだよ、それ」
「クラスのLINEでお前が休むって回ってきて、心配した女子が秋月さんに聞いたら看病に行くとか言ってたって、ひなたちゃんが教えてくれた」
情報の伝達経路が、思ったより広範囲に及んでいることに、俺は軽く眩暈がした。誰がどこで何を話したのか、細部まで筒抜けになっている気がする。
「お前それもう完全に......」
桐生のメッセージは、そこで意味深に途切れていた。三点リーダーの余韻が、画面越しにもニヤニヤした顔を想像させる。俺はどう返信すればいいか迷いながら、結局短く済ませる。
「うるせえ、看病してもらっただけだろ」
俺は画面を睨みつけながら、そう打ち込んだ。
「看病してもらっただけ、で済むわけねえだろ。秋月さん、わざわざ2日も来てるんだぞ」
桐生の指摘は、的を射ていた。俺はそれ以上反論せず、スタンプだけを返す。
最後に届いたメッセージには、応援の絵文字が一つだけ添えられていた。
「まあ、頑張れよ」
桐生からの最後の一言に、俺は苦笑いするしかなかった。スタンプの猿が親指を立てている画像が、妙に癪に障る。
スマホを置いて、テーブルの上のメモをもう一度見つめる。何度読んでも、素っ気ない一文だった。だがその素っ気なさの奥にある気遣いを、俺はちゃんと受け取っていた。
台所を見ると、洗い終えた鍋や皿が水切りかごに並んでいた。凛が帰る前に片付けてくれたのだと、見ればすぐに分かった。水滴がまだ器の縁に残っていて、そこまで時間が経っていないことを教えてくれる。
昨日の失敗作の小鍋も、綺麗に磨かれて棚に戻されていた。あんなに水浸しの惨状だったのに、今は跡形もない。凛がどんな顔でその後片付けをしたのか、想像すると少しおかしくなる。
書き置きのメモを、俺はそっと折り畳んだ。捨てる気にはなれず、机の引き出しの奥にしまうことにする。しまう前に、もう一度だけ広げて文面を目に焼き付けた。文字を見ていると、凛の声が聞こえる気がした。
翌朝、体調はほぼ元通りになっていた。目覚めの瞬間から体が軽く、久しぶりに深く眠れた実感があった。俺はいつも通り弁当を作って、学校に向かう準備をする。
教室に着くと、凛はもう自分の席についていた。窓際の光の中で、静かに文庫本を開いている。朝の柔らかい日差しが、ページの端を白く照らしていた。
「おはよう」
俺が声をかけると、凛はこっちを見て、少し驚いたような顔をした。
「......顔色、戻った」
凛はそう言って、安心したような表情を見せる。頬に浮かんだ柔らかい表情は、教室ではあまり見せないものだった。
「ああ、おかげさまでな」
「......そう」
凛はそれだけ答えて、また文庫本に視線を戻した。だがその口元には、隠しきれない安堵が浮かんでいる。
「秋月、弁当、持ってきたぞ」
俺は鞄から弁当箱を取り出しながら、そう言った。二日ぶりの手作り弁当を作る間、なんとなく浮ついた気分だったことに、包みを見せながら気づく。凛はこっちを見て、小さく笑った。
「......当然」
その一言に、俺は小さく笑い返す。凛が来てくれた2日間のことを、俺はまだ鮮明に覚えていた。
昼休み、いつも通り弁当を広げる。今日のおかずは肉じゃがと卵焼き、それに久しぶりの唐揚げだった。体調が戻った祝いのつもりで、朝から少し気合を入れて作った。湯気の立つ肉じゃがの匂いが、蓋を開けた瞬間に広がる。
「秋月、書き置き、ありがとうな」
俺がそう言うと、凛は箸を止めて、少し戸惑ったような顔をした。卵焼きを咥えたまま固まった凛の表情に、俺は思わず噴き出しそうになる。
「そんなに驚くことか、それ」
「......驚く。あんなの、覚えてるはずないと思ってた」
凛はそう言って、慌てて卵焼きを飲み込んだ。俺はその反応を見ながら、あのメモがどれだけ大事な一枚だったか、あらためて実感する。
「......覚えてたんだ」
「机の引き出しに、大事にしまってある」
その返答に、凛は驚いたように目を見開いた。まさか大事に保管されているとは、想像もしていなかったらしい。
「......捨てなかったの」
「捨てるわけないだろ、あんな貴重なもの」
俺がそう言うと、凛は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「......大げさ」
「大げさじゃねえよ、秋月の字、初めてちゃんと見た気がしたし」
俺がそう続けると、凛はさらに耳を赤くする。授業中に見えるノートの端の字とは違って、あの書き置きには何か特別な丁寧さがあった気がした。
俺はメモの上に何度も重ね書きされたような跡を思い出しながら、聞いた。
「秋月、あれ、何回か書き直したのか」
「......何回か、書いた。気に入るまで」
凛はそう言って、視線を弁当箱に落とす。
「『困る』の前、なんか消してあっただろ。あれ何て書いてたんだ」
「......見すぎ」
凛は箸で卵焼きを持ち上げたまま、それだけ言った。質問には最後まで答えなかった。耳だけが赤かった。俺はそれ以上、追及しないことにしておいた。
「......からかわないで」
「からかってねえよ、本当のことだろ」
その返しに、凛は何も言い返せなくなったようだった。ただ黙って、卵焼きに箸を伸ばす。
「今日の卵焼き、いつもより甘い」
凛がそう指摘してくる。箸で持ち上げた卵焼きの断面を、しげしげと見つめていた。俺は少し驚いた。
「よく分かったな」
「......分かる。毎日食べてるから」
その一言に、俺はしばらく次の言葉が出てこなかった。毎日食べてるから。事もなげに言って、凛は箸を進めている。
「そういえば、桐生に色々言われてな」
俺がそう切り出すと、凛は箸を止めてこっちを見た。
「......何を」
俺は苦い顔をしながら、そう白状した。
「秋月が看病に来たって、もう完全に何とかって、はやし立てられた」
凛はその話に、少し困ったような顔をした。頬がわずかに赤らんでいるのが、机越しにも分かる。
「......否定しなかったの」
「否定する理由もねえし」
俺がそう答えると、凛はそれ以上何も聞かず、ただ小さく頷いた。視線を弁当箱に落として、卵焼きをもう一切れ口に運ぶ。その反応に、俺は妙な安心感を覚える。
教室のざわめきの中で、窓際のこの一角だけ、話し声のない時間が、さっきから続いていた。
「秋月、体調崩さなかったか。俺の風邪、うつってねえよな」
俺がそう心配すると、凛は自分の額に手を当てて、確かめるような仕草をしてから首を横に振った。
「......平気。うつらなかった」
「ならよかった」
俺がそう言うと、凛は胸を軽く張るようにして、少し得意げな顔をした。
「......言ったでしょ、風邪ひきにくい体質だから」
「そういえば、言ってたな」
俺はその会話を思い出しながら、頷いた。ベッドの横で額に触れてきた手の冷たさが、まだかすかに記憶に残っている。あの手が、風邪をひきにくい体質だと言われてもすぐには信じられない、頼りない冷たさだったことも。
昼休みが終わって、午後の授業が始まる。数学の板書がいつもの倍の速さに見えるのは、2日休んだせいだ。俺はノートを取る手を必死に動かした。
その途中、ノートの端に、無意識に「唐揚げ」と書いていた。明日の弁当の話だ。慌てて二重線で消したが、消した線の方が目立った。隣の席をちらりと見る。凛は板書を写すのに集中していて、こっちを見ていない。見ていないよな、と俺はもう一度だけ確認した。
教師の声が黒板の前から響いているのに、俺の意識は半分そこになかった。ノートを開いても、ペンを持つ手はなかなか動かなかった。
凛の看病、失敗したおかゆ。それから――あの日、目を覚ました時の凛の顔。妙に目が合わなかった。何かあったのかと聞いたら、「......何でもない」と言って、毛布の端を必要以上に丁寧に畳み直していた。あの手つきの意味を、俺はまだ聞けていない。
窓の外では、冬の雲が緩やかに流れている。俺は机の引き出しを少しだけ開けて、あの書き置きの端が見える位置まで確かめてから、静かに閉めた。チャイムが鳴った。




