おかゆ戦記
翌日も熱は下がりきらず、俺は学校を休んだ。体温計はまだ37度台の後半を示していて、体の節々に鈍い痛みが残っている。昼過ぎ、スマホにLINEが届く。
「今日も行く」
凛からの短いメッセージだった。既読をつけた指先が、思わず止まる。俺は少し慌てて返信する。
「無理しなくていいぞ、もう大丈夫だから」
「......行く」
その一言だけで、返信は終わっていた。俺は諦めて、玄関の鍵を開けておくことにした。
夕方になって、玄関のチャイムが鳴る。窓の外はもう薄暗くなり始めていた。ドアを開けると、凛がまたコンビニ袋を提げて立っていた。昨日より少し早い時間で、息が上がっているのが分かる。
「秋月、昨日も今日も、悪いな」
「......平気。近いから」
凛はそう言って、家に上がってくる。今日の袋の中身を確認すると、昨日と同じようなラインナップだった。
「今日は、私が何か作る」
凛が突然、そう宣言した。腕まくりまでして、やる気だけは十分な様子だった。俺は嫌な予感を覚える。
俺は布団の中から半身を起こして、そう指摘した。
「秋月、料理、壊滅的なんじゃなかったのか」
「......そう。でもおかゆくらいならできると思う」
俺は半信半疑のまま、天井を見上げた。
「その自信、どこから来るんだよ」
「......レシピ、見た。水と米を炊くだけ」
凛は自信満々にそう言い切った。胸を張った姿勢は、まるで難しい問題を解く前の自信のようだった。俺はその根拠のなさに、思わず身構える。
「秋月、無理すんな。俺、まだ動けるから」
「......ダメ。寝てないと」
凛はそう言って、俺を強引にベッドに追い返した。両手で俺の背中を押す力は、思ったより強い。俺は仕方なく布団に潜り込みながら、台所の様子に耳を澄ませる。
しばらくすると、水を注ぐ音、鍋を火にかける音が聞こえてきた。俺は不安を抱えながら、天井を見つめる。ことん、という何かがぶつかる音がして、続いて凛の小さな声が漏れ聞こえる。「......大丈夫」。誰に向けた言葉なのか、自分に言い聞かせているだけなのか、俺には判断がつかなかった。
台所からは、包丁の音が一切しなかった。おかゆなら具材を切る必要もないから当然かもしれないが、それでも妙な静けさが、逆に不安を煽ってくる。
どれくらい時間が経った頃だろうか。台所から「......あれ」という小さな声が聞こえた。俺はその声の不穏さに、思わず布団から起き上がる。
俺は不安を抱えたまま、台所に向かって声をかけた。
「秋月、大丈夫か」
声をかけながら台所に向かうと、凛が鍋の前で困った顔をしていた。エプロン姿の凛は木べらを片手に、途方に暮れたように鍋を見下ろしている。鍋の中身を覗き込むと、それはおかゆというより、ほとんど汁物のような状態になっている。
凛はおろおろした様子で、木べらを握りしめていた。
「......水、多かった?」
「多かったっていうか、これ完全に間違えてるだろ」
俺がそう指摘すると、凛は肩を落とした。
「......レシピ通りにやったのに」
「レシピ、ちゃんと見たか」
「......見た、多分」
その「多分」という言葉に、俺は嫌な予感を覚える。テスト前の「多分大丈夫」と同じ、根拠のない自信の匂いがした。
俺は半身を起こしかけたが、凛が慌てて手で制してきた。
「秋月、寝てて」
「......台所、危ないから」
凛がそう言って、俺を押し返そうとする。その手は昨日と同じくらい冷たかった。だが俺はその手を軽くかわして、鍋の前に立った。
「寝てたら台所が危ないだろ、この状況だと」
俺がそう言うと、凛は言い返せずに黙り込む。俺は仕方なく、鍋の中身を確認しながら、追加の米と時間をかけて作り直すことにした。
「秋月、悪いけど、俺がやる」
「......ごめん」
凛は申し訳なさそうな顔で、俺の隣に立った。木べらを持つ手を、所在なさげに胸の前で組んでいる。俺は追加の米を鍋に入れながら、火加減を調整していく。とろ火にすると、鍋の中身が静かに泡立ち始めた。
俺は鍋を覗き込みながら、そう尋ねた。
「水の量、どのくらい入れたんだ」
「......レシピに書いてあった通り」
「レシピ、見せてみろ」
凛がスマホの画面を見せてくる。俺は画面に顔を近づけて、表示された数字を一つずつ確認した。確認すると、米の分量に対して水が明らかに多すぎる配分になっていた。
「秋月、これ多分、単位間違えてるだろ」
「......単位?」
「ml表記のとこ、カップ数だと勘違いしてないか」
凛はその指摘に、はっとしたような顔をした。
「......してた、かもしれない」
「レシピサイトのカップ表記、200mlのやつと180mlのやつがあるから、余計にややこしいんだよな」
俺がそう説明すると、凛は真剣な顔で頷きながら聞いていた。まるで期末テストの解説を聞いているような、妙に熱心な様子だった。
「......次から、気をつける」
「気をつけるっていうか、まずレシピを声に出して読んでから作れ。俺がチェックしてやるから」
「......そこまでしなくても」
「いや、した方がいい。今日みたいなことになるから」
俺がそう言うと、凛はばつが悪そうに視線を逸らした。
俺はその答えに、力が抜けそうになりながらも、鍋をかき混ぜながら、横目で凛の様子を窺う。凛は自分のスマホの画面を睨みつけるように見つめて、何度も表示を確認していた。
「そんな顔すんなよ」
「......悔しい」
凛は小さくそう呟いた。眉根を寄せて唇を尖らせる様子が、いつもの淡々とした表情とは違って見える。俺はその素直な反応に、少し微笑ましくなる。
「そんなに悔しがるようなことか、これ」
「......悔しい。あなたの看病、するはずだったのに」
凛はそう言って、エプロンの裾をぎゅっと握った。看病されるはずが、逆に看病する側に回っている。熱で重い頭のどこかで、笑いと申し訳なさが同時に湧いて、どちらも顔に出さないことにした。
しばらくして、おかゆがようやく完成した。米粒がとろりと溶けて、湯気が立ち上る。俺はそれを器に盛って、リビングのテーブルに運ぶ。
「秋月、器持ってきてくれ」
俺がそう頼むと、凛は棚から不慣れな手つきで器を取り出し、二人分並べた。ふと見ると、失敗した方の汁物も、捨てずに小鍋の中に残されている。
「これ、どうする気だ」
「......もったいないから、味見だけする」
凛はそう言って、失敗作の器にも少しだけ中身をよそった。俺はその律儀さに、少し呆れながらも感心する。
「秋月も、一緒に食べるか」
「......うん」
凛は少し戸惑いながらも、隣に座った。俺はおかゆを一口食べてみる。優しい味が、体に染み渡っていく。米の甘みと、ほんの少しの塩気だけの、飾り気のない味だった。それがかえって、疲れた体には心地よい。喉を通るたびに、体の芯にゆっくりと熱が戻っていくのが分かった。
「美味い」
「......よかった」
凛は安堵したような顔をした。俺はもう一口食べてから、口を開く。
「でも、作ろうとしてくれたの、嬉しかったよ」
俺は器の底に残った米粒まで、丁寧にすくって食べた。その一言に、凛は少し驚いたような顔をした。
「......本当に?」
「ああ、本当に」
俺がそう答えると、凛は拳をぎゅっと握った。
「......次は、ちゃんと作る」
その決意表明に、俺はまた小さく笑ってしまう。凛らしい負けん気だった。拳を握る手の甲に、力がこもっているのが見えた。
「次があるのか、それ」
「......次はない方がいい。あなたが元気な方がいいから」
凛はそう言い直して、視線を斜め下に逃がした。俺は「そうだな」とだけ返して、レンゲでおかゆの残りをさらった。米の一粒まで、なぜか残す気にならなかった。
おかゆを食べ終えて、俺はまたベッドに戻ることにした。熱のせいか、急に眠気が襲ってくる。
「秋月、悪いけど、少し眠くなってきた」
「......寝て。私、しばらくいるから」
凛はそう言って、ベッドの横に椅子を持ってきて座った。木の椅子が床を擦る音が、静かな部屋に小さく響く。俺はその存在を感じながら、少しずつ眠りに落ちていく。まぶたが重くなっていく中で、凛が何か本を取り出してページをめくる音が、遠くから聞こえた気がした。
* * *
藤宮くんが眠りに落ちてから、私はしばらくその寝顔を見ていた。
規則正しい寝息、少し赤い頬、乱れた前髪。普段は見られない無防備な顔だった。教室で見せる仏頂面とも、たまに見せる照れ隠しの表情とも違う、力の抜けきった顔。私はその顔を、瞬きも忘れて見つめていた。
鞄に目をやると、あの猫のキーホルダーがついているのが見えた。クリスマスに渡したものを、今も鞄につけてくれている。それだけのことに、私は小さく微笑んでしまう。埃をかぶることもなく、大事にされているのが一目で分かった。
「......あきづき......」
藤宮くんが、寝言でそう呟いた。
私は、その場で固まった。毛布の端が、指の中で形を変えていた。
聞き間違いかと思って、もう一度耳を澄ませる。だが藤宮くんは、それきり何も言わなかった。ただ静かに、寝息を立てている。規則正しい呼吸のリズムだけが、部屋の静けさを埋めていた。
夢の中でまで、私の名前を呼んでくれている。......ずるい、と思った。本人が起きている時には、絶対に聞けない声の柔らかさだった。
私は椅子に座ったまま、しばらく藤宮くんの寝顔を見守り続けた。窓の外はもう、すっかり暗くなっている。
テーブルの上には、私が作った失敗作の器と、藤宮くんが作り直したおかゆの器が並んでいた。それでも藤宮くんは、あの一言をくれた。
この時間が、もう少しだけ続けばいいと思った。
窓の外から、車の走る音がかすかに聞こえてくる。それ以外は、藤宮くんの寝息と、壁掛け時計の秒針の音だけ。私は椅子の背にもたれて、その二つの音の間隔がずれたり重なったりするのを、いつまでも聞いていた。
母には、看病を口実に少し遅くなると連絡を入れてある。噓ではない。実際、私は今、藤宮くんの看病をしている。ただ、その内実が誰かに見られたら、きっと違う言葉で呼ばれるんだろうということも、なんとなく分かっていた。
鞄の中の猫のキーホルダーを、私はもう一度見つめた。金具の部分が、部屋の薄明かりを反射して、小さく光っている。あの日、藤宮くんが受け取ってくれた時の顔を、私は今も鮮明に覚えていた。




