37.8度
1月中旬、朝起きると体が重かった。喉の奥がひりつくような感覚があって、額に手を当てると、はっきりと熱を感じる。関節の節々が鈍く痛んで、寝返りを打つだけで体力を持っていかれるようだった。
体温計で測ると、37.8度と表示された。珍しく風邪をひいたらしい。
母さんは夜勤明けで寝ている。俺は起こさないよう静かに、自分のベッドに戻って布団に潜り込んだ。忍び足で歩いたつもりだったが、頭の重さで足元がおぼつかず、廊下の板がわずかに軋んだ。
枕元に置いてあった水を一口飲んで、また目を閉じる。喉の痛みに、水すら染みるように感じた。頭がぼんやりして、思考がまとまらなかった。今日は弁当も作れない。凛に連絡しないといけない、と思いながらも、体を起こす気力が湧いてこなかった。
しばらく布団の中でうとうとしていると、スマホの震動で目が覚めた。凛からのLINEだった。
「今日、休むの?」
「ああ、熱出た。悪い、弁当作れねえ」
「......大丈夫?」
「たぶん風邪。寝てれば治る」
「......」
三点リーダーだけの短い返信に、俺は少し首を傾げた。既読はついたが、それきり返信が止まった。何か言いたいことがあるのに言葉にできないような、そんな沈黙に見えた。俺はスマホを枕元に置いて、また目を閉じる。
うとうとしながら、どれくらい時間が経ったか分からなくなっていた頃、玄関のチャイムが鳴った。
誰か来客だろうか。母さんは寝ているし、俺はこの体調で応対する気力もなかった。だがチャイムはもう一度鳴る。
仕方なく、俺は布団から這い出て、よろよろと玄関に向かった。廊下の冷たい空気が、火照った体に容赦なく突き刺さる。ドアを開けると、そこには制服姿の凛が立っていた。手にはコンビニ袋を提げている。頬が寒さで赤くなっていて、白い息を何度も吐いていた。
「......お見舞い」
凛は短くそう言って、袋をこっちに差し出してきた。
俺は寝間着のまま突っ立って、目の前の光景をしばらく理解できずにいた。
「秋月、なんでここに」
「......学校終わったから」
時計を確認すると、確かにもう15時を過ぎている。学校が終わってから、まっすぐここに来たらしい。
「方向、迷わなかったのか」
「......迷った。でもなんとか着いた」
凛はそう言って、少し得意げな顔をした。頬にはまだ寒さの赤みが残っていて、コートの裾には土埃が薄くついている。学校からここまでは、毎日一緒に歩いている通学路と同じ道のはずだった。どこで迷う要素があったのかは、熱のある頭では考えないことにする。
スマホの地図を何度も確認しながら、迷いながらも、それでもここまで来た。方向音痴の凛にとって、それがどれだけの労力だったか、俺にはよく分かっていた。普段なら絶対に一人で選ばない道を、俺のためだけに歩いてきてくれた。
「入れよ、寒いだろ」
俺がそう言うと、凛は靴を脱いで家に上がってきた。リビングまで案内すると、凛はコンビニ袋の中身をテーブルに並べ始める。手際は決して良くなかったが、一つ一つ丁寧にテーブルの上に置いていく仕草に、俺は少し見入ってしまった。
俺はソファに座って、その様子を眺めていた。頭の芯がぼんやりして、視界の輪郭が少し滲んでいる。それでも、目の前で動く凛の姿だけは、やけにはっきり見えた。
ゼリー、ポカリスエット、のど飴。どれも風邪の時の定番だった。
「......作ると壊滅するから、買ってきた」
「自覚あるのか」
「......ある」
凛は真面目な顔でそう答えた。過去の弁当の惨劇を思い出したのか、その表情は妙に重々しい。俺はその素直さに、また笑ってしまう。
「秋月、座れよ。突っ立ってないで」
俺がそう促すと、凛はソファに腰を下ろした。コートを脱ぐタイミングを見失ったのか、着たままの姿勢で背筋を伸ばしている。俺もその隣に、少し距離を取って座る。
「部屋、暖房ちゃんとつけてる?」
凛がそう聞いてくる。俺は頷いた。
「つけてる。ただ、布団から出るのが面倒で」
「......ダメ。ちゃんと暖かくしてないと」
凛はそう言って、リビングのエアコンの温度設定を確認しに立ち上がる。
「あと2度くらい上げた方がいい」
凛はリモコンのボタンを慣れない手つきで押しながら、画面の表示を何度も確認していた。
「秋月、勝手にリモコン触っていいのか」
「......体調管理は大事だから」
凛はそう言い切って、エアコンの設定温度を上げた。送風口から吹き出す風の音が、少しだけ強くなる。俺はその背中を、ただ黙って見ていた。
凛が身を乗り出して、そう聞いてくる。
「熱、何度あるの」
「37.8」
「......微妙に高い」
凛は眉を寄せて何かを考え込むような顔をしてから、こっちに手を伸ばしてきた。
俺は急に伸びてきた手に、思わず身を引きそうになった。
「秋月?」
「......熱、測る」
凛の手が、俺の額にそっと触れた。ひんやりとした感触が、熱で火照った肌に心地よかった。指の一本一本の輪郭まで感じ取れるくらい、その手のひらは冷たくて、それでいて優しかった。
「......まだ熱い。寝てないとダメ」
凛が真剣な顔でそう言う。眉間にわずかに皺を寄せて、まるで自分が熱を持っているかのような表情だった。俺は口が勝手に動いた。
「手、冷たくて気持ちいい」
凛は一瞬、驚いたような顔をしたが、手を離さなかった。
しばらくの間、二人とも黙ったままだった。凛の手のひらの冷たさだけが、俺の額に残っている。リビングの時計の秒針の音だけが、やけにはっきり聞こえた。
凛の顔が、思ったより近くにあった。熱のせいでぼんやりした視界の中でも、その真剣な表情だけは輪郭がはっきりしている。俺は目を逸らすべきなのか、このまま見つめていていいのか、判断がつかないまま、ただじっとしていた。
カーテンの隙間から差し込む冬の光が、埃をゆっくりと舞わせている。その光の筋の中で、凛の手だけが動かずに、俺の額に留まっていた。
「......もう、離すね」
凛がそう言って、ようやく手を離す。俺はその温度差に、少し名残惜しさを覚えた。額に残った冷たさが、じわじわと元の熱に上書きされていくのが分かった。
「秋月、わざわざ来てくれて悪かったな」
「......別に。心配だっただけ」
凛はそっけなくそう言って、テーブルの上のゼリーに視線を落とした。だがその声の端には、隠しきれない安堵が滲んでいた。俺の熱を確かめるまで、実はずっと気を張っていたのかもしれない。そう思うと、わざわざここまで迷いながら来てくれたことが、余計にありがたく感じられた。
「ゼリー、食べる? 今」
「ああ、もらう」
凛が冷蔵庫からスプーンを持ってきてくれて、俺はゼリーを口に運んだ。喉に染みる冷たさが、火照った体に心地よかった。白桃の甘さが、乾いた喉をゆっくり潤していく。凛はそれを見届けるように、じっとこっちを見つめていた。
「秋月、ゼリーの味、どうやって選んだんだ」
「......いろいろ種類あって、迷った」
「そうか」
凛は棚に並んだゼリーを一つずつ手に取っては戻す自分の姿を思い出しているのか、少し遠い目をした。
「......結局、無難な白桃にした」
凛はそう言って、少し照れくさそうな顔をした。俺はその選び方に、凛らしい慎重さを感じて、また小さく笑ってしまう。
「美味い」
「......よかった」
凛はそう言って、少し安心したような顔をした。
「秋月、風邪、うつるかもしれないから、あんまり近づかない方が」
俺は少し体をずらしながら、そう気遣った。凛は首を横に振った。
「......平気。私、風邪ひきにくい体質だから」
「そうなのか」
凛は自分の腕を軽くさすりながら、少し誇らしげに続けた。
「......うん。小さい頃から、あんまり体調崩さない」
小さい頃の凛。想像しようとしたが、熱のせいか、今と同じ無表情でランドセルを背負った凛しか浮かばなかった。しかもランドセルを背負ったまま道に迷っていた。多分だいたい合っている。
窓の外の光がだいぶ傾いているのに気づいて、俺はそう促した。
「秋月、今日はもう帰った方がいいんじゃないか。暗くなる前に」
俺がそう言うと、凛は少し名残惜しそうな顔をしたが、頷いた。
「......そうする」
凛はソファから立ち上がって、玄関へ向かう。俺もふらつきながら、それを見送りに行った。頭がまだくらくらしていて、壁に手をついて体を支えた。
「無理しないで、寝てて」
凛がすぐに気づいて、そう咎めるように言った。俺は苦笑いしながらも、玄関までの数歩だけは自分の足で歩いた。
「今日、ありがとうな」
「......うん」
凛は靴を履きながら、小さく頷く。踵をとんとんと床に打ち付けて、靴の位置を整えてから、もう一度打ち付けた。
俺はドアの隙間から、遠ざかっていく背中を見つめながら言った。
「明日、まだ休むかもしれねえけど」
「......ゆっくり治して」
凛はそう言って、玄関を出ていった。夕暮れの冷たい空気が、開いたドアから一瞬だけ流れ込んでくる。俺はその背中を見送ってから、ドアを閉める。
リビングに戻ると、テーブルの上に残されたゼリーとポカリが目に入った。凛が来てくれたことの証拠が、そこに静かに残っている。空になったゼリーの容器と、まだ手をつけていないポカリのペットボトル。それだけの光景なのに、部屋の空気が少し前とは違って感じられた。
スマホが震えて、凛からのメッセージが届いた。
「......ちゃんと寝るように」
「了解、寝る」
「......本当に? さっきも布団から出てたのに」
凛の指摘に、俺は苦笑いする。エアコンの操作をしていたところを見られていたらしい。
「今度こそ寝る。マジで」
「......信じる」
そのやり取りを最後に、俺はスマホを机に置いた。画面が暗くなるのを見届けてから、俺はもう一度深く息を吐いた。
俺はもう一度ベッドに戻って、布団に潜り込んだ。枕元には、凛が置いていったゼリーの残りが2つ、几帳面に並べてある。ラベルの向きまで揃っていた。
スマホが震えた。凛からだった。
「......ちゃんと寝た?」
布団の中からこれを打っている俺は、なんと返すべきなのか。「今から寝る」と送ると、返事の代わりに、体温計のスタンプが届いた。そんなスタンプが存在すること自体を、俺は初めて知った。
エアコンの温かい風の音が、規則正しく部屋に響いていた。額には、まだ手の冷たさが残っている。




