観測者の独白
初詣の帰り道、藤宮くんと凛が手を繋いでいるのを見た瞬間、あたしは思わずスマホを取り出しそうになった。石段を降りる二人の後ろ姿が、夕暮れの光を浴びてやけに絵になっていて、一瞬、目を離せなくなる。
証拠を押さえておきたい、という気持ちと、余計な茶々を入れずにそっとしておいてやりたい、という気持ちが同時に湧いた。結局、後者を選んだ。
石段を降りる二人の背中を見ながら、あたしはこれまでのことを思い返していた。
あたしが凛に声をかけたのは、去年の秋くらいだった。一人でお昼を食べている女子を見かけて、なんとなく気になった。「秋月さん、一人でお昼? こっち来なよ」。あの時、凛は明らかに戸惑っていた。誰かに誘われることに慣れていない様子だった。箸を持つ手が一瞬止まって、それからおずおずと弁当箱を持ち上げた仕草を、今でもよく覚えている。
最初の頃は、会話も続かなかった。あたしが一方的に話しかけて、凛が短く相槌を打つだけ。それでも根気強く話しかけ続けているうちに、少しずつ凛の方から話す量が増えていった。最初は「......うん」だけだったのが、そのうち「......そう思う」に変わって、今ではちゃんとした意見を返してくるようになった。その変化を隣で見てこられたことが、あたしにとっては地味に誇らしい。
クラスで壁を作ってる子を見ると、放っておけない。理由は、たぶん聞かない方がいい。小学生の頃、あたし自身が似たような壁を作っていた時期があったからだ、というのは、誰にも言ったことがない。
まさか、ここまで面白い展開になるとは思わなかった。
あたしは恋愛漫画を読み漁ってきた自称「恋愛マスター」だ。他人の恋愛模様を見抜くことにかけては、それなりの自信がある。だが自分自身の恋愛は、これまで全部片想いで終わっている。3回告白して、3回とも振られた。
1回目は中学の時、部活の先輩。2回目は高校に入ってすぐ、隣のクラスの男子。3回目は去年の春、あろうことか桐生と同じ塾に通っていた別の男子だった。どれも共通しているのは、告白する直前まで、脈があると信じ込んでいたことだ。相手のちょっとした優しさを、勝手に好意だと解釈して、盛大に空回りした。今思えば、あたしの観察眼は他人にしか効かないのかもしれない。
だからこそ、他人の恋愛を本気で応援できるのかもしれない。自分ではうまくいかない分、誰かの恋が成就するのを見るのが、単純に楽しかった。
桐生が横から歩いてきて、あたしの視線の先を追う。
「あの二人、もう付き合ってるようなもんでしょ」
あたしがそう呟くと、桐生も同意するように頷いた。
「な。本人たちだけが気づいてないやつ」
あたしは石段を降りていく二人の背中を目で追いながら、そう答えた。
「気づいてないっていうか、気づかないふりしてるだけかもね、藤宮くんは」
「秋月さんの方は?」
「凛は、多分本当に気づいてない。あの子、自分の感情に疎いところあるから」
あたしはそう言いながら、これまで見てきた凛の反応を頭の中で並べてみる。藤宮くんの話題になると声のトーンが変わること。マフラーを触る回数が増えたこと。写真の中で珍しく笑っていたこと。凛自身は、その全部を「別に」の一言で片づけようとするけど、傍から見ていれば丸わかりだった。
桐生は呆れたように肩をすくめて言った。
「二人とも鈍いとか、逆に才能あるだろ」
「ほんとそれ。見ててイライラすることもあるけど、まあ、それも含めて面白い」
あたしがそう分析すると、桐生は感心したように頷いた。感心されるたびに、少しだけ得意な気分になる。他人の恋愛を読み解くことだけは、誰にも負けない自信があった。
桐生は感心したように、あたしの顔をまじまじと見た。
「白河、よく見てるな、そういうとこ」
あたしは胸を張って、少し得意げにそう答えた。
「まあね。他人の恋愛観察は得意分野だから」
「自分の恋愛はどうなんだよ」
桐生が何気なく放った一言に、あたしの心臓が小さく跳ねた。一瞬、返事に詰まる。石段を降りる足も、そこだけ半歩遅れた。
自分の恋愛の話になった途端、あたしの声のトーンは我ながら分かりやすく落ちた。
「......あたしのことはいいでしょ、別に」
「お、なんか歯切れ悪いな。何かあったのか」
「何もないよ。ただ、あたしは他人の観察してる方が性に合ってるってだけ」
あたしはそう言って、話を切り上げようとした。桐生はそれ以上追及せず、肩をすくめる。その気遣いに、少しだけ拍子抜けした自分がいた。もっとしつこく食い下がられたら、いっそ全部話してしまいたい気持ちもあったのかもしれない。
あたしは唇だけで笑った。
凛が笑うようになった。藤宮くんの名前を口にする頻度が増えた。LINEの返信が即レスなのは相変わらずだけど、その内容は前よりずっと素直になっている。
あの子は、自分が思ってるほど隠せてない。
でもそれが、いいんだと思う。不器用なまま誰かを好きになれるのは、強さだと思う。
3回振られた記憶が、今でも時々よみがえる。告白する前の緊張、返事を聞く瞬間の心臓の音、そして振られた後の、あの何とも言えない静けさ。あの静けさを思い出すと、スマホを持つ手が一瞬止まる。
3回目の時は特にひどかった。返事を聞く前に、もう半分泣きそうになっていた。相手が困った顔をした瞬間、あたしは全部を悟った。「ごめん」の一言を聞く前から、結果は分かっていたのに、それでも実際に言葉にされると、体の奥が冷たくなった。あの感覚だけは、何度経験しても慣れない。
だから凛の恋を、あたしは全力で応援したい。自分にできない分、せめて誰かの背中を押してあげたい。それが、あたしなりの3回分の失恋の使い道なんだと思う。
駅に着いて、それぞれが帰りの電車に乗る準備をしていた。凛と藤宮くんは、まだどこか気まずそうな距離感を保ちながら、同じ電車に乗り込んでいく。
「じゃあね、また学校で」
あたしはそう言って、二人を見送った。凛が改札の向こうへ消えていくまで、あたしは自分でも意外なほど長く目で追っていた。桐生とひなたも、それぞれの方向へ散っていく。
家に帰る電車の中で、あたしはスマホを取り出して、今日撮った写真を見返した。5人で写ったその写真の中で、凛が珍しく柔らかい表情を浮かべている。
この笑顔を、あたしはずっと見ていたいと思う。写真の中の凛は、口角がわずかに上がっているだけなのに、それだけで別人みたいに柔らかく見えた。
自分の部屋に戻って、着物を脱いで部屋着に着替える。帯を解く手つきは、朝母に手伝ってもらった時よりずっとぎこちなかった。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
スマホが震えて、通知が届く。凛からのLINEだった。
「......つぐみ。2月に、お願いがある」
その一文に、あたしは思わず声を出して笑った。布団の中で膝を抱えたまま、しばらく笑いが収まらなかった。
「来たか」
あたしは布団の中で小さくガッツポーズをした。
2月といえば、バレンタインだ。凛が何を頼もうとしているのか、あたしには容易に想像がついた。
あたしはにやけそうになる口元を、枕に押し付けて隠した。
「何、どうしたの急に」
あたしがそう返信すると、凛からの返事には少し時間がかかった。
「......まだ、内緒」
既読はすぐについたのに、次の返事が来ない。あたしは画面を三回見直して、その間ずっと入力中の表示が出たり消えたりするのを眺めていた。
「はいはい、了解。楽しみにしとくね」
あたしはそう返して、スマホを枕元に置いた。バレンタインまでまだひと月以上あるのに、頭の中ではもう当日の凛の顔を想像し始めていた。紙袋を後ろ手に隠して、口を尖らせて、絶対に「義理だから」って言うんだろうな、あの子は。
自分の恋愛はうまくいかなくても、誰かの恋を見守るのは、これほど楽しいことだったのか。そんなことを、この一年で初めて実感した気がした。恋愛漫画の中の登場人物を応援するのとは、まるで違う手触りがあった。凛は現実にいて、あたしの隣の席に座っていて、その一挙一動を、あたしは自分の目で確かめられる。
窓の外に、冬の星が瞬いている。あたしはしばらくその光を眺めながら、来る2月のことを、少しだけ想像してみた。カーテンの隙間から入る冷気が、頬をかすかに撫でていく。
凛のバレンタイン。きっと簡単にはいかないだろう。あの子の不器用さを思えば、なおさらだ。
チョコを作る過程だけでも、想像すると先が思いやられる。溶かすところで焦がすか、型に流すところでこぼすか、どちらにしても一筋縄ではいかない気がした。だがそれでも、凛が誰かのために何かを作ろうとすること自体が、以前のあの子からは考えられない変化だった。
でもそれでいい。不器用なまま、精一杯頑張る凛の姿を、あたしは近くで見ていたい。手伝ってほしいと頼られたことが、素直に嬉しかった。今までの凛なら、絶対に一人で抱え込んで、誰にも相談せずに済ませようとしていたはずだ。
スマホをもう一度手に取って、桐生とのグループチャットに、今日の写真を投稿する。既読がすぐについて、桐生からの返信が来た。
「今日は楽しかったな」
「うん、良い一年の始まりだったね」
あたしはそう返信してから、桐生とのグループチャットをもう一度開いた。既読の数字が増えていくのを、しばらく眺めていた。ひなたのスタンプが一つ追加されて、それを最後にやり取りは止まった。
スマホを置いて、布団に潜り込んだ。冷たいシーツが徐々に体温で温まっていくのを感じながら、目を閉じる。
次は......あたしの番かな。
3回振られた記憶を、布団の中で指折り数えてみる。中2の先輩、高1の隣のクラス、去年の夏の。......三本目の指を折ったところで、数えるのをやめた。趣味が悪いにも程がある。
スマホの通知が、もう一度光った。凛からの追加のメッセージだった。
「......ありがとう、いつも」
その一文に、あたしはしばらく画面を見つめた。凛からこんな風にストレートな感謝の言葉が届くのは、珍しいことだった。画面の光が暗い部屋の中で、やけに眩しく感じられる。
あたしは画面を見つめたまま、少し照れくさくなって指を動かした。
「別に、大したことしてないから」
あたしはそう返信したが、実際は結構嬉しかった。去年の秋は、話しかけても短い返事しか返ってこなかったのだ。それが今は、向こうから「ありがとう」が飛んでくる。
返信の既読はすぐについた。それから少し間があって、猫が頭を下げるスタンプが一つ届いた。あんなの持ってたんだ。
あたしはスマホを伏せた。




