零時の既読
大晦日の夜、俺は一人でリビングにいた。母さんは今日も夜勤で、家には俺だけだった。
テレビでは紅白歌合戦が流れている。特別熱心に見ているわけでもなく、ただ画面を眺めながら、こたつに足を入れてぼんやりしていた。こたつの中の熱が足首から膝まで這い上がってきて、そのまま眠ってしまいそうになる。
台所には、母さんが作り置きしてくれたおせちが並んでいる。年越しそばもすでに茹でてあって、あとは食べるだけの状態になっていた。俺はそばの入った鍋を見ながら、少し早いが一人で食べ始めることにする。出汁の匂いが湯気とともに立ち上って、静かな部屋に温かさを広げた。
麺をすすりながら、今年一年のことを漠然と振り返っていた。今年の4月、2年生になって隣の席が凛になった。あれからまだ1年も経っていないのに、随分といろんなことがあった気がする。
最初の頃は、隣の席の女子が何を考えているのか、まるで分からなかった。愛想がないとか、無口だとか、周りはそんな風に凛のことを噂していたが、実際に隣で過ごしてみると、印象はすぐに崩れていった。方向音痴で、料理が壊滅的で、素直じゃない言葉の裏に、いつも別の意味が隠れている。そういう凛の輪郭を、俺は少しずつ知っていった。
箸を置いて、こたつの天板に頬杖をつく。テレビの中で、歌手が今年最後の一曲を歌い上げていた。画面の光が、薄暗いリビングをちらちらと照らしている。
スマホが震えて、通知が届く。凛からのLINEだった。
「......明日、初詣に行こうってつぐみが言ってる」
俺は箸を止めて、スマホの画面を確認した。
「知ってる。桐生からも来た」
俺はそう返信する。既読はすぐについて、また返事が来た。
「......あなたは行くの」
「行くよ」
「......じゃあ私も行く」
その短いやり取りに、俺は小さく笑ってしまう。凛らしい、遠回しな確認の仕方だった。
「何時集合とか、つぐみから聞いてるか」
「......10時、神社の前だって」
「了解、覚えとく」
「......着物とか、着てくるのかな」
俺は桐生の顔を思い浮かべながら、返信を打った。
「桐生が張り切って着物着てきそうだな、逆に」
「......想像できる」
凛からそんな返信が届いて、俺は思わず声を出して笑った。桐生が着物姿ではしゃぐ様子は、確かに容易に想像できる。
紅白の歌が変わって、司会者が今年最後の挨拶を始めた。俺はそれを聞き流しながら、また画面に視線を戻す。
「今年、一番の思い出って何だった?」
試しにそう送ってみると、凛からの返信には少し時間がかかった。
「......色々あって、一つに絞れない」
「だよな。俺もそう」
「......強いて言うなら、屋上」
その一言に、俺は少し胸が詰まる感覚があった。文化祭の夕方、屋上で凛が声を殺して泣いていたあの日のことは、俺の中でも特別な記憶として残っている。あの日、夕焼けに染まったフェンスの冷たさまで、はっきり思い出せた。
「俺も、あの日は忘れねえと思う」
「......うん」
凛からの返事は短かったが、その分だけ重みがあった。俺はしばらく、その一言を見つめていた。
あの日、フェンスにもたれて泣いていた凛の背中を思い出す。声を殺しながらも肩が震えていて、俺はどう声をかければいいのか、しばらく分からなかった。あの日の凛の弱さを知ったから、今のこの穏やかなやり取りが、余計に大事に思える。
スマホの画面には、まだ「屋上」の三文字が残っていた。指先でその文字をなぞるように、俺はもう一度画面を見つめる。
「来年の抱負とかあるか」
俺がそう聞くと、凛はしばらく既読のまま、返信が来なかった。少し経ってから、ようやくメッセージが届く。
「......まだ、決めてない」
既読がつくまでの数秒間、こたつの中で丸めた膝が少しずつ冷えていくのを感じた。
「そうか」
そう返しながら、俺は画面をもう一度見た。こたつの上に置いたスマホを、俺はしばらく見つめた。返信を待つ間、テレビの音量がやけに大きく感じられる。
「......あなたは」
「俺も特にねえよ。強いて言うなら、今のままでいたい、くらい」
その返信を送ってから、俺は少し気恥ずかしくなった。だが取り消すタイミングも逃して、そのままにしておく。送信ボタンを押してから既読がつくまで、俺は画面から目を離さなかった。時計の秒針が3回動いた。
「......今年は、いろいろあった」
凛からそう届く。俺はその一言に、この一年の出来事を頭の中で振り返った。
「いいことが多かったよな」
俺はそう返す。方向音痴の秘密を知った春の日、文化祭の準備で夜遅くまで作業した秋、花火大会で二人きりになった夏の終わり、修学旅行の京都。
あの頃の記憶を辿りながら、俺は少し眉をひそめた。
「一番大変だったのは、多分、文化祭前後だな」
俺がそう送ると、凛からもすぐに返事が来る。
「......うん。あの時期は、色々こじれてた」
「今はもう、こじれてねえよな」
「......うん。今は、大丈夫」
その短いやり取りに、俺は安堵する。あの頃のぎこちなさを思うと、今の関係がどれだけ穏やかなものになったか、改めて実感できた。文化祭準備の頃は、ちょっとした一言ですれ違って、教室の空気が重くなることが何度もあった。今は同じ一言を交わしても、変な緊張が挟まらない。その変化がいつ起きたのか、正確には分からない。ただ気づけば、当たり前のようにこうしてスマホの画面越しに言葉を交わしている。それだけで十分だと思えた。
「......うん」
凛の短い返事に、俺は画面越しでも伝わる温度を感じた。
テレビの画面が、紅白から特別番組に切り替わった。渋谷の中継映像が映し出され、大勢の人が集まっているのが見える。
「そっちのテレビも、もうカウントダウン特番か」
こたつから抜け出して、俺は台所へ黒豆を取りに行った。戻ってくると、画面はもう次のコーナーに切り替わっている。俺がそう送ると、凛からすぐに返信が来る。
「......うん。うちも」
その返信の温かさに、俺は少しほっとする。
「一人で見てるのか」
「......両親と。一緒にこたつに入ってる」
凛の家のこたつも、きっと今頃は暖かいんだろう。
その返信に、俺は少し安心する。凛が家族と穏やかに年越しを過ごしていることが、なんとなく嬉しかった。
テレビの中で、カウントダウンが始まった。俺はスマホを握ったまま、画面と紅白の中継を交互に見る。
「10、9、8......」
アナウンサーの声が、部屋に響いていた。俺はスマホの画面を見つめたまま、その数字を一緒に数えていた。
「3、2、1......」
新年を告げる鐘の音が、テレビから聞こえてくる。渋谷の中継映像では、大勢の人が一斉に歓声を上げていた。俺はその瞬間、スマホの画面が光るのを見た。
「......あけましておめでとう」
凛からのメッセージだった。俺はそれを見て、思わず口元が緩む。
「おめでとう。来年もよろしく」
俺がそう返信すると、少し間を置いてから返事が来た。
「......来年じゃなくて、今年」
その指摘に、俺は自分の間違いに気づいて笑ってしまう。日付が変わったばかりで、頭がまだ切り替わっていなかった。
「そうだった。今年もよろしく」
寝ぼけていた頭が、今更ながらすっきりしていく。
俺がそう言い直すと、すぐに返信が来る。
「......うん」
しばらく間が空いた後、もう一通、メッセージが届いた。
「......今年もよろしく、藤宮くん」
その一言に、俺はしばらく画面を見つめていた。画面の向こうで、凛がマフラーを巻いているような気がして、俺は小さく笑う。
夏休みのファミレスで、来年もみんなで海に行こうと何気なく言った時、凛は窓の外を見るしかできなかったことがあった。あの時の凛は、まだ「来年も一緒にいる」ということを、当たり前だとは思えていなかったんだと思う。転校を繰り返してきた凛にとって、来年の約束は簡単に口にできるものじゃなかったはずだ。
今はもう、その一瞬がどこにもない。「今年もよろしく」の五文字を、俺はもう一度見返した。当たり前のように、それは届いていた。
こたつの中で足を伸ばしながら、俺は天井の木目をぼんやり眺めていた。新しい年が始まったばかりだというのに、なんだか一年分の感慨を先取りしたような気分だった。
「秋月、明日、寝坊すんなよ」
俺がそう送ると、すぐに返信が来る。
「......そっちこそ」
「俺は寝坊しねえよ、多分」
「......多分は信用できない」
凛のもっともな指摘に、俺は苦笑いする。実際、今日は夜更かしをしているせいで、明日の朝が少し不安だった。
その返しに、俺はまた笑ってしまう。
テレビでは、新年最初の特番が始まっていた。画面の中で、アナウンサーが今年最初のニュースを読み上げている。俺はこたつに寝転がって、スマホの画面をもう一度見つめる。
凛からの最後のメッセージが、まだ画面に残っていた。
「......今年もよろしく、藤宮くん」
その一文を、俺はもう一度読み返した。画面が暗くなるまで、指はホームボタンに触れなかった。凛が普段口にしない呼び方を、こんな時にだけ使ってくるのがずるいと思った。
窓の外では、遠くから微かに、除夜の鐘の音が聞こえてくる。俺はスマホを胸の上に置いたまま、しばらくそのままの姿勢でいた。
母さんからも、夜勤先からメッセージが届いていた。
「あけましておめでとう。良いお年を」
「おめでとう、母さんも体に気をつけてな」
俺はそう返信して、こたつから起き上がる。台所に置いてあるおせちを、少しだけつまみ食いすることにした。
黒豆を一つ口に運びながら、今年最後の日をこうして静かに過ごせたことに、ささやかな満足感を覚える。冷めた黒豆の甘さが、口の中でゆっくりと広がった。年が明けたばかりの台所は、時間が止まったように静かだった。
スマホがもう一度震えた。凛からの、追加のメッセージだった。
「......明日、寒いだろうから、ちゃんと着込んでくること」
「了解、お前もな」
「......言われなくても」
その短いやり取りを最後に、俺はスマホを充電器に繋いで、布団に入った。天井の常夜灯を見上げながら、明日の待ち合わせの時間をもう一度頭の中で確認する。10時、神社の前。
遠くで、除夜の鐘がまだ鳴っていた。数えていたはずの回数は、とっくに分からなくなっている。鐘の合間に、隣の家の方から窓を閉める音が小さく聞こえた。




