母の観察眼
大掃除がひと段落した頃には、もう昼過ぎになっていた。
「お腹減ったな。俺、昼飯作るわ」
俺がそう言うと、母さんが台所からひょこっと顔を出した。
「あら、蒼太が作ってくれるの? 助かるわ」
「秋月も食べてくか」
俺がそう聞くと、凛は少し迷った様子を見せたが、やがて頷いた。
「......いただきます」
俺は台所に立って、冷蔵庫の中身を確認する。卵、豚肉、野菜が一通り揃っていた。今日は簡単に生姜焼きとサラダにすることにする。冷蔵庫の中はいつも通り整理されていて、母さんが忙しい合間を縫って買い出しをしてくれているのが分かる。まな板を出して包丁を研ぎ、豚肉の筋を丁寧に切っていく。単調な作業だが、手を動かしていると、さっきまでの浮ついた気分が少しずつ落ち着いてきた。
フライパンを火にかけて、豚肉を並べていく。じゅうっという音とともに、生姜と醤油の香ばしい匂いが台所に広がった。母さんが横から覗き込んできた。
「あら、手際いいわね」
「毎日やってりゃ、これくらいできるようになるだろ」
「凛ちゃんの分、ちゃんと美味しく作ってあげなさいよ」
母さんはそう言って、こっちをからかうように見てくる。俺は誤魔化すように、フライパンの中身をかき混ぜた。豚肉が焼ける音に紛れて、母さんの視線がしつこくこっちを追っているのを感じる。
「凛ちゃん、蒼太のお手伝い、してあげてくれる?」
母さんがそう言うと、凛は少し緊張した面持ちでキッチンに入ってきた。
「秋月、何か手伝えることあるか」
「......サラダ、盛り付けるの、できる」
俺は野菜を切りながら、少し不安を覚えた。だが今更引き止める理由もなく、まな板を横に押しやって、切った野菜を渡すことにした。
「じゃあ、これ皿に並べてくれ」
「......分かった」
凛はエプロンをつけて、真剣な顔で野菜を受け取る。裾を何度も直しながら紐を結ぶ手つきが、いかにも不慣れだった。母さんはそれを見て、微笑ましそうに目を細めていた。
「凛ちゃん、エプロン似合うわね」
「......ありがとうございます」
凛の自己申告に、俺は内心少し身構えた。案の定、渡した野菜を切ってもらうと、大きさがまちまちで、盛り付けも不揃いになっている。
「秋月、これ、ちょっと形が......」
「......味は変わらない」
凛はそう言い切って、堂々とサラダを皿に盛っていく。母さんはそのやり取りを、リビングから覗き込んでニヤニヤしながら見ていた。
「凛ちゃん、料理はあんまり得意じゃないのね」
「......壊滅的、だと思う」
凛が正直にそう答えると、母さんは楽しそうに笑った。
「素直でいいわ。蒼太は昔から料理好きでね」
「母さん、余計なこと言うなよ」
俺はフライ返しを持つ手に思わず力を込めた。豚肉が焦げそうになって、慌てて火を弱める。
「あら、いいじゃない。凛ちゃんも知りたいでしょ、蒼太の昔の話」
母さんがそう言うと、凛は興味を隠しきれない様子で、こっちを見てきた。
「......知りたい」
その一言に、俺は少し観念する。母さんの饒舌さを止める術は、俺にはなかった。
昼食を終えて、リビングでくつろいでいると、凛がふと本棚の下の段に目を留めた。そこには古いアルバムが数冊並んでいる。背表紙の色褪せ方から、随分古いものだと分かる。
「これ、見てもいい?」
「......ちょっと待て、それは」
俺が止めようとした時には、既に凛はアルバムを手に取っていた。ページをめくると、幼い頃の俺の写真が並んでいる。
「......これ、藤宮くん?」
凛が指差した先には、5歳くらいの俺が、エプロンをつけて卵焼きを作っている写真があった。
「......かわいい」
凛がぽつりと呟く。俺はアルバムを閉じたい衝動を、なんとか抑え込んだ。
「秋月、それもう見なくていいだろ」
「......まだ見る」
凛はそう言って、さらにページをめくっていく。指先が写真の端をそっと押さえる仕草に、俺は逆らう気力を失った。母さんがそこに割り込んできた。
「蒼太、小さい頃から料理好きでね。5歳の時に初めて卵焼き作ったのよ」
「母さん、その話、今しなくても」
「その時、卵の殻が入っちゃって、大泣きしたのよね」
「......泣いたの?」
凛が興味津々な様子で聞いてくる。俺は誤魔化しようもなく、頷くしかなかった。
「......ああ、泣いた。悔しくて」
母さんはアルバムのページを愛おしそうに撫でながら、続けた。
「その後も何度も練習して、今の腕前になったのよ。あの子、負けず嫌いなところがあってね」
母さんは楽しそうに、俺の知られたくない過去を次々と暴露していく。凛はそれを、一つも聞き逃さないという様子で聞いていた。
アルバムのページがさらにめくられる。小学生の俺が運動会で一等賞のリボンをつけて写っている写真が出てきた。
「これは、運動会の時ね。蒼太、足だけは速かったのよ」
「......今も速いの?」
「今はもう、帰宅部だからな。中学まではサッカー部だったけど」
俺がそう答えると、凛は少し意外そうな顔をした。
「......サッカー、してたんだ」
「ああ。今はもう、走る機会もほとんどねえけど」
凛はその情報を、頭の中に丁寧にしまい込むような顔をしていた。ページの端を人差し指で押さえたまま、視線だけを俺の方に何度も往復させている。
「他にも、何かあります?」
「あるある、いっぱいあるわよ」
母さんはそう言って、次のページをめくった。ページの隅が少し反り返っていて、糊で貼られた写真が今にも剥がれそうになっている。今度は小学校低学年くらいの俺が、水泳教室の後らしく、耳から水が抜けないと泣いている写真だった。
「これなんて傑作よ。プールの水が耳に入って、この世の終わりみたいに泣いてたの」
写真の中の幼い俺は、片耳を押さえてぐしゃぐしゃの顔で泣いている。今見ると、確かに情けない有様だった。
「母さん、それは勘弁してくれ」
俺は思わず両手で顔を覆った。
「あら、可愛かったわよ、本当に」
母さんはくすくすと笑い続けている。
凛はその写真を見て、口元をわずかに緩めた。
「......これは、笑っていい?」
「笑うなよ、お前まで」
俺がそう言うと、凛は堪えきれないというように、小さく声を漏らして笑った。口元を手の甲で隠しながらも、肩が小刻みに震えている。母さんもそれを見て、嬉しそうに笑っている。
「秋月、そろそろその話終わりにしろ」
「......もう少しだけ」
凛はそう言って、まだアルバムのページをめくり続けていた。俺はそれを止める気になれず、隣で肩をすくめるしかなかった。
窓の外の光がだんだんと橙色に傾いていくのを見て、凛が時計を確認する仕草を見せた。しばらくして、凛が帰る時間になった。玄関まで見送りに出ると、凛は丁寧に頭を下げた。
凛はコートを羽織り直しながら、深く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「また来てね、凛ちゃん。今度はゆっくりお茶でもしましょう」
母さんはそう言って、凛を送り出す。凛は少し照れくさそうに頷いて、玄関を出ていった。
母さんはドアの隙間から、名残惜しそうに手を振っていた。
「今度また、遊びに来てね」
母さんがそう声をかけると、凛は振り返って小さく頭を下げた。
「......はい。ありがとうございます」
凛はそう言って、玄関を出ていく。冬の冷たい風が、一瞬だけ玄関に流れ込んできた。
その背中が見えなくなってから、母さんが俺の方を振り返る。
「蒼太」
「......何だよ」
「あの子、いい子ね」
母さんはそう言いながら、玄関のドアをそっと閉めた。廊下の電気に照らされた顔から、さっきまでのからかう色が消えていた。母さんの言葉に、俺は何も返せなかった。
「......好きなんでしょ?」
核心を突かれて、俺はしばらく黙り込んだ。誤魔化そうとしても、この母親には通用しない気がした。
「......うん」
俺はそれだけ、小さく認めた。
「いつから?」
「......分かんねえ。気づいたら、そうだった」
「そう。まあ、恋なんてそんなものよね」
母さんはそう言って、しみじみと頷いた。その横顔に、俺の知らない誰かの気配がよぎった気がした。台所の換気扇の音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。俺は黙って頷いた。
母さんは嬉しそうに、大きく頷く。
「応援してるわよ」
母さんはそう言って、俺の背中を軽く叩いた。手のひらの熱が、しばらく背中に残っていた。窓の外はもう夕暮れで、リビングの照明がぽつりと灯っている。
「......うるせえよ」
「照れなくていいのに。ねえ、いつ告白するの?」
「......まだ考え中」
「早い方がいいわよ、こういうのは。あんたの父さんも、決断が遅い人だったから」
母さんはそこで一度言葉を切って、少し懐かしそうに目を細めた。
母さんはそう言って、少し遠い目をした。父さんの話が出るのは珍しかったが、母さんの口調に暗さはなかった。
「......分かってるよ、それは」
「まあ、蒼太のペースでいいけどね」
母さんはそう言って、笑いながら台所へ戻っていく。エプロンの紐を締め直す音が、廊下越しに聞こえてきた。俺はリビングに残って、さっきの凛とのやり取りを思い返していた。
机の上には、母さんが押し付けてきたアルバムがまだ置いたままになっている。
窓の外を見ると、冬の午後の光が、庭先を柔らかく照らしている。俺は自分の部屋に戻って、今日一日の出来事を、もう一度頭の中で整理し直した。
母さんに気持ちを認めたのは、初めてのことだった。言った後も、思ったほど恥ずかしくなかった。それが自分でも意外だった。
スマホが震えて、凛からのメッセージが届く。
「今日は、ありがとう」
それだけの短い文面に、俺はしばらく画面を見つめた。返信を考えながら、俺は小さく笑っていた。
「こっちこそ、来てくれて助かった」
俺はそう打って送信する。既読はすぐについて、少し間を置いてから返事が来た。
「......また誘って」
その一言に、俺はまた口元が緩むのを感じた。まさか凛の方から、次を誘ってほしいと言ってくるとは思わなかった。
「ああ、また誘う」
俺はそう返信して、スマホを机に置いた。窓の外では冬の日差しがゆっくりと傾き始めている。今日一日の出来事を振り返りながら、俺はしばらくベッドに寝転がっていた。台所からは母さんが夕飯の下ごしらえをする包丁の音が、規則正しく響いてくる。その音を聞きながら、俺は瞼を閉じた。




