大掃除あるいは戦争
冬休み2日目、俺は朝から母さんと二人で大掃除に取り掛かっていた。
「蒼太、そっちの窓、頼める?」
「ああ」
俺は雑巾を手に、リビングの窓ガラスを拭いていく。冷たい水で絞った雑巾が、手のひらの熱をどんどん奪っていった。母さんは棚の上の埃を払いながら、鼻歌交じりに掃除機のコードを伸ばしていた。
スマホが震えて、通知が届く。凛からのLINEだった。
「......暇」
その一言だけのメッセージに、俺は思わず笑ってしまう。相変わらず、簡潔すぎる連絡だった。画面を見つめる俺の口元が、自然と緩んでいた。
「暇なら掃除手伝え」
軽い気持ちでそう返信すると、既読はすぐについて、返事もすぐに来る。
「......行く」
その即答ぶりに、俺は少し驚いた。冗談のつもりだったのに、まさか本当に来るとは思わなかった。慌てて散らかった自分の部屋のドアを閉め、リビングの方を軽く見回す。
10分もしないうちに、玄関のチャイムが鳴った。母さんが真っ先に反応する。
「はーい」
母さんが玄関に向かうのを、俺も慌てて追いかけた。ドアを開けると、そこには私服姿の凛が立っていた。
「あらあら、凛ちゃん! 嬉しいわ、来てくれて」
母さんは満面の笑みで凛を招き入れる。エプロンの裾で手を拭きながら、まるで娘でも迎えるような勢いだった。凛は少し緊張した面持ちで、頭を下げた。
「......お邪魔します」
「今日は大掃除中でね、猫の手も借りたいくらいだったの。助かるわ」
母さんはそう言って、凛をリビングまで案内する。俺はその後をついて行きながら、母さんの上機嫌ぶりに少し呆れていた。
「凛ちゃん、コート預かるわね。お茶でも飲む?」
「......いえ、大丈夫です」
「そう? 遠慮しなくていいのよ」
母さんはそう言いながら、凛の様子を興味深そうに観察している。俺はその視線に気づいて、少し焦った。
「母さん、あんまりじろじろ見るなよ」
「あら、見てないわよ、そんなに」
母さんはとぼけるようにそう言って、台所へ戻っていく。凛はその背中を見送りながら、少し戸惑ったような顔をしていた。
「......お母さん、優しい人だね」
「まあ、悪い人じゃねえよ。ちょっと騒がしいけど」
俺がそう答えると、凛は小さく頷いた。
「秋月、本当に来るとは思わなかったぞ」
「......暇だったから」
凛はそっけなくそう答えて、コートを脱いだ。母さんがそれを受け取りながら、興味津々といった様子で聞いてくる。
「凛ちゃん、家事得意なの?」
「......普通」
凛はそう答えたが、俺はその言葉に一抹の不安を覚えた。凛の「普通」は、大抵の場合、普通ではない。過去の弁当作りの惨劇が嫌でも脳裏をよぎる。
案の定、掃除が始まってすぐに、その不安は的中した。
母さんが台所の換気扇を掃除しに行った隙に、俺は凛の作業を見に行った。リビングの真ん中で凛は掃除機を睨みつけるように構えている。
「秋月、コード踏むなって」
俺がそう声をかけた時には、既に掃除機のコードが椅子の脚に絡まっていた。凛はそれを解こうとして、余計に絡ませてしまう。
「......おかしい。なんで絡まるの」
「お前が引っ張るからだろ」
俺はそのコードを丁寧にほどいて、掃除機を元の位置に戻した。凛はそれを見て、少し不服そうな顔をする。
「......次は気をつける」
その宣言も虚しく、次は窓拭きで拭きムラを量産していた。俺が確認すると、ガラス一面に雑巾の跡がくっきりと残っている。
「秋月、これムラだらけだぞ」
「......そう見える?」
「めちゃくちゃ見える」
凛はガラスに顔を近づけて、自分の仕事ぶりを確認した。息がかかったガラスがうっすら白く曇って、それがまた新しいムラを作る。しばらく無言で見つめた後、小さく頷く。
「......たしかに」
棚の整理を任せた時には、また別の問題が発生した。整理し終わった棚を見ると、元々あった場所とは明らかに違う配置になっている。分類の基準を聞いても、凛は自信満々に「見た目」とだけ答えた。
「秋月、これ、どこに何があったか分かってやってるのか」
「......綺麗に並んでる」
「綺麗さの問題じゃなくて、母さんが使いやすい場所かどうかが問題なんだよ」
俺がそう指摘すると、凛は棚を見つめたまま、少し考え込んだ。
「......言われてみれば」
「お前、生活能力......」
俺がそう呆れて呟くと、凛はムッとしたように言い返してきた。
「......掃除は方向の問題じゃない」
「方向の問題でもないぞ、これは」
俺の返しに、凛は言葉に詰まる。その反論できない様子が、妙におかしかった。
「藤宮くんだって、完璧じゃないでしょ」
「俺は普通にできてるだろ、今のところ」
「......悔しい」
凛が小さくそう呟く。俺はその素直な反応に、また笑いそうになった。
「じゃあ次、本棚の整理、俺がやる。秋月は雑巾がけ頼む」
「......分かった」
凛は素直に頷いて、雑巾を手に取った。俺は本棚の前にしゃがんで、背表紙の順番を整えていく。埃を被った文庫本の背表紙を一冊ずつ拭きながら、著者名順に並べ直した。しばらくすると、凛が床を拭きながら独り言のように呟いた。四つん這いになって雑巾を押す動きは、ぎこちないながらも真剣そのものだった。
「......この家、居心地いい」
「そうか?」
「......うん。落ち着く」
その一言に、俺は少し照れくさくなった。誤魔化すように、本の並べ方に集中するふりをする。
母さんはそんな俺たちのやり取りを、リビングの隅から楽しそうに眺めていた。
「二人とも、いいコンビね」
「どこがだよ」
俺がそう返すと、母さんはにやにやしながら台所へ戻っていく。
しばらくして、母さんが買い出しに出かけることになった。
「お昼の材料、買ってくるわね。二人でお留守番、よろしく」
母さんはそう言って、財布を手に玄関へ向かう。ドアが閉まる音を聞いてから、俺は改めてリビングを見渡した。掃除の途中で積み上げたままのクッションが、ソファの端に山になっている。凛と二人きりになるのは、こういう時いつも少し緊張する。
「秋月、あの棚の上、まだ埃残ってるな」
俺が指差した先には、確かに埃が薄く積もっていた。窓から差し込む光の筋の中で、埃の粒がゆっくり舞っているのが見える。凛は椅子を持ってきて、その上に立とうとする。
「秋月、危ねえよ、それ」
凛はつま先立ちで、棚の上の埃をハンディモップで払おうとしている。
「......平気」
凛はそう言って、椅子の上に立った。だが背伸びをした瞬間、椅子がわずかにぐらついた。
「あ」
凛が小さく声を上げる。気づけば手が伸びていた。指先が触れたのは、想像より柔らかい腰の感触だった。
凛の体が止まった。呼吸の間隔が、俺の腕の中で狂う。頬に触れた黒髪の先が、くすぐったいのか痛いのかもわからない感覚を連れてきた。石鹸のものとも違う、凛の匂いだけが鼻先をかすめて、頭の芯がぼんやりする。
どれだけそうしていたのか、時間の感覚がなくなっていた。手のひらだけが、やけに輪郭を持って熱い。窓の外を車が一台通り過ぎる音がして、それでようやく時間が動き出したような気がした。
「......降ろして」
凛が小さく、そう言った。俺は我に返って、慌てて手を離す。凛は椅子から降りて、俺から少し距離を取った。フローリングを、爪先だけでそっと踏むような下がり方だった。
「......ありがとう」
「......いや」
俺はそれだけ答えるのが精一杯だった。凛は自分の腕を軽くさすりながら、視線を逸らしている。耳が、はっきりと赤くなっていた。
俺は椅子をそっと元の位置に戻しながら、まだ乱れている自分の呼吸に気づいた。
「秋月、無理すんなよ、そういうの」
「......次は気をつける」
凛はそう言って、椅子を元の場所に戻した。俺はその背中を見ながら、さっきの一瞬の感触が、まだ手のひらに残っている気がしてならなかった。
玄関の鍵が開く音がして、母さんが帰ってきた。
買い物袋がかさりと音を立てて土間に置かれる。
「ただいま、二人とも喧嘩してない?」
「......してない」
凛が短くそう答える。母さんは買い物袋を提げながら、リビングを見回した。
母さんは玄関から上がってくるなり、リビングをぐるりと見回した。
「あら、だいぶ綺麗になったじゃない」
「秋月が頑張ったんだよ、一応」
俺がそう言うと、凛は少し誇らしげな顔をした。
「......一応じゃなくて、頑張った」
「はいはい、頑張った」
俺がそう返すと、凛は満足そうに小さく頷く。母さんはそのやり取りを見て、また嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、お昼の準備するから、二人はもう少し休んでて」
母さんはそう言って、買い物袋を台所へ運んでいく。俺と凛はリビングのソファに並んで座って、少し休憩することにした。
「秋月、大掃除、疲れたか」
「......疲れた。でも悪くなかった」
凛はそう言って、小さく息をつく。俺はその横顔を見ながら、さっきの一瞬のことを、また思い出していた。
「今度、うちの掃除も手伝ってくれるか」
俺が冗談めかしてそう聞くと、凛は少し考える素振りを見せた。天井を仰ぐように視線を上げて、指を一本ずつ折りながら何かを数えている。三本目で止まって、四本目を折るかどうか迷っていた。折らないことに決めたらしく、拳を握って下ろした。
「......考えておく」
「考えるようなことか、それ」
「......大事なこと」
凛はそう言って、真面目な顔で頷いた。俺はその反応に、また小さく笑ってしまう。
窓から差し込む午後の光が、床に長い矩形を描いている。ソファに座ったまま、俺は伸びをした。
「そういえば、秋月の家、大掃除いつやるんだ」
「......来週の予定」
「手伝おうか、俺も」
俺がそう言うと、凛は少し驚いたような顔をした。
「......いいの?」
「今日の礼、っていうことで」
「......礼なら、もういらない。今日で十分」
「別にいいだろ、それとこれとは」
俺がそう返すと、凛はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「......じゃあ、お願いする」
その返事に、俺は少し満足感を覚える。凛はソファの背もたれに体を預けて、小さく息をついた。
台所から、母さんの鼻歌が聞こえてくる。醤油と出汁の匂いが、リビングまでゆっくり漂ってきた。冬休みの午後が、賑やかに過ぎていった。




