第85話-2 軒下の亡霊
第85話-2
その数日後──
葉山ひまりは巫女姿で、自宅である八ノ宮神社境内で両親の手伝いをしていた。
その夜、月は雲に隠れ、星だけが異様に強くまたたいていた。
なかでも射手座の星だけが、不自然なほど強く光っていた。
見守っているというより――狙っている。そんな光だった。
拝殿の欄間にかけた影が、風もないのにわずかに揺れる。
ひまりは、氏子が厄落としに持ち込んだ人形や、いわくのある物を段ボールへ収め、本殿へ運んでいた。
紙垂が触れ合い、紙の匂いが鼻に刺さる。
八ノ宮神社の歴史は古い。
平安時代後期に生まれたとされる崇徳上皇。その崇徳上皇も祀られている。
朝廷に敗れ、京を追われた天皇――崇徳上皇。
海を越えて四国へ流され、そして、
……二度と都へは戻れず非業の死を遂げたとされている。
その名は、死後――
平将門、菅原道真と並び、「日本三大怨霊」として言い伝えられることになる。
そしてこの八ノ宮神社。
生前、崇徳上皇はこの地を訪れ、
地の底に眠るとされる『八大龍王』を参拝した――
それが、この神社の由来だ。
葉山ひまりは、その神社の跡継ぎ娘であり、現在は巫女として、両親の手伝いをしている。
そのひまりでも、この神社が崇徳上皇を祀っているのか――
それとも、封じているのか。
分からなくなる夜が、時々あった。
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ……」
ひまりは百人一首の歌を読む。これは崇徳上皇が詠んだとされる和歌。
何度か繰り返し、光り輝く射手座の下、ひまりは本殿へと向かっていた。
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ……」
悲劇の天皇であり、そして日本最大の悪霊である崇徳上皇。彼はこの神社で何を想い、何を願って、去っていったのだろう……?
ひまりはその途中、拝殿、つまり人々がお賽銭を投げ、願い事をする建物の横を通った。
社務所の時計は正確に時を刻んでいる。
なのに、風鈴だけが鳴らなかった。
風は、確かに吹いているのに。
「あ……」
ふいに、段ボールの中に入っていた、手毬が、転げ落ちてしまった。
箱を揺らしてしまったのだろう。
手毬は、地面に落ちて、
ぽーん、と、
跳ねる。
これは、例の平家谷の事件で亡くなった老婆の手毬。
厄払いとして預けられていたものだ。
その手毬が、地面で何度か跳ねながら、
そのまま拝殿の下へと、
ころころ、と、
転がっていってしまった。
拝殿の下は、まったくの光が失われ、
夜の闇がさらに深い。
「やだ……」
ひまりは、段ボールを地面に置くと、その床下を覗き込んだ。
この闇の奥に、確かにあの手毬はある。
朝になってから拾いに行っても良かった。
だがひまりは、その時、「朝まで待つ」という考えを、なぜか選べなかった。
腰を落とす。そしてしゃがんだまま、拝殿の床下へ身を滑らせる。
すぐに見つかると思った。
そんな先まで行ってないだろうと考えていた。
目の前には闇。
床下の土は、やけに乾いている。
それなのに、掌に触れた場所だけが、異様に冷たい。
手を離す瞬間、遅れて皮膚が引き留められる感触さえある。
まるで、そこだけ別の場所に触れているみたいだった。
その時――声が、聞こえた。
『どこでしょう……どこでしょう……』
一瞬で、ひまりは身構える。
この時間、
神社の床下、
人がいるはずはない。
だが、そう聞こえた――いや、聞こえている。
(もしかして、また……)
見えて……いや、聞こえてしまったのだろうか。
(でも、鳥居の中……怪異が入り込むはずは……)
聞き間違いだと思い込もうとした瞬間である。
『どこでしょう……どこでしょう……。あの方は、どこでしょう……』
「……!」
囁きは目の前から。
なのに、遠近が合わない。
耳のすぐ横と社叢の奥から同時に聞こえる。
ひまりの目が闇に慣れてくる。
背後の星明かりを吸うほどの深い闇。
この先に──
理屈ではなく、皮膚が先に理解した。
これは――
そこに「いる」。
逃げ出せば良かった。
だが、それは同時に「気づいた」ということを意味する。
──「気づいた」ことを相手に悟られるのは、危険……
それは、過去の経験から十分に分かっていた。
だから、気づかないふりをするしかない。
いやでも、止まるわけにはいかない。
知らないふりで、手毬を追う。
どれだけ怖いものを見ることになったとしても、
──それが一番、安全……
分かっていた。
もう、これまでのことから、そうするしかないと自覚はしていた。
それでも、冷や汗が滲み出す。
どうしても、慣れることはできない。
背筋がぞくぞくと震える。
いや、気付かないふりをして、知らん顔で手毬を諦めたことにすればいいのではないか。
いや、それなら、「気づいた」かもしれないと思われ、追って来られるだろうか。
ひまりは迷った。
闇の中で、手毬を探す。
それしかないと分かっていても、どうしても「怖い」気持ちで、心が揺らいでしまう。
それで迷い、悩む。
そこへ。
ふいに。
こちらへと。
手毬が、ころころと転がってきた。
闇の奥から。
まずい──!
脳からくだされる危険信号。
この反応はまずい!
(声を聞いた時から、気づかれていたかも……!)
ひまりはその手毬を取った。
そして、闇に背を向けるため踵を返そうと脚を滑らせる。
なのに。
ひまりが、手毬を持って振り返ったその真正面には。
少女の――脚だけが、あった。
視線を上げる前に、関節の角度が「おかしい」と分かった。
人の身体では、そうはならない角度……
(ダメ……、これ、見ちゃいけないやつだ……)
肌は蝋人形のように白い。
そしてなぜか、ゴスロリっぽい衣装を着ている。
関節の角度は、やはり、人のそれ、ではない。
その身体は、四つん這いのまま、首だけを折るようにこちらを向いていた。
『どこでしょう……、どこでしょう……』
口は、動いていない。
にわかに、ひまりの顔が青ざめた。
怪異は見慣れている。
でも、これ《・・》は、いつも見かけるようなやつではない。
なぜならば……
──すでに、この世に、”形”を持っている……!
影がある。
重さがある。
床下の向こうから見える光を、この怪異は、遮っており、
地面の砂に、それが移動したことが分かる、足跡が残っている。
もう進めない。
さすがに、気づかないふりをし続けるのも、無理がある。
このゴスロリ少女の横を知らんぷりですり抜ける自信も、とてもじゃないが、ない。
『どこでしょう……、どこでしょう……。あの方は、どこでしょう……』
子どもが遊ぶようなその声だけが、
床下を這って、
ひまりの耳元まで来ていた。
相手は動いてない。
でも、目の前からも、耳元からも、そして背後からも、その声が聞こえている気がする。
「気づかれた」とか「気づかれなかった」、そういう問題では、すでにない。
そもそも、接触してはいけないタイプ。
出逢ってしまった、それで”終わり”になるパターン。
動けない。
もう、どうすればいいのか、分からない。
そのひまりを、
その瞳が、ついに、
捉えた。
(見つかった……!)
見つかっているのは、分かっているのに、思わず心でそう叫んでしまった。
もうこれは、目が合った、ではすまない。
──“名札”を読まれたような感覚。
値踏みされているような実感。
ゴスロリ少女は、明らかに、ひまりが見えている。
危険信号がマックスになった。
即座に、ひまりは背を返す。
その瞬間、額に触れた髪が一筋、勝手に逆立った。
(まずい……まずい……まずい……)
逃げ出せるかどうかは、もう分からない。
でも、仕方ない。
こういう場合、ひまりが知っている手段は、
逃げ出す以外に、ない。
ひまりは、入ってきた方向とは反対方向へと進み始めた。
つまり、拝殿の床下の奥の方へ。
闇から遠く、向こうに見える星あかりに向けて急いで這って行く。
多少、距離はある。
だが、
──あのゴスロリに近づくよりは、はるかにマシ!
四つん這いで懸命に土を掻く。
闇へと歩を進める。
でも、その先には、確かに、光がある。
──あそこまで、逃げられたら……!
まだ逃げ切れるチャンスがある。
その背後から。
──カサ。
──カサ、カサ。
(追ってきてる……!)
ひまりは泣き叫びそうになった。
でも、我慢した。
ここで心が折れたら、きっと体は動かなくなる。
そうしたら、
──掴まる!
必死で逃げるひまりの耳に、乾いた紙が土をするような足音。
──来ないで、来ないで、来ないで!
もし、勘違いだったのなら。
もし、ここまで全部が錯覚なら。
もう、そうであってほしい。
──着いてこないで! お願いっ!
これまで。
ひまりは、ほとんどの怪異を、知らぬ存ぜぬ、
見て見ぬふりをしてきた。
そうすることで、大体のことからは逃げられた。
現実でも同じだ。
見て見ぬふり。
それが、いかに残酷なことだとして、
本当の”恐怖”というものを知っているひまりからすれば、死ぬよりはいい。
それで、これまで、うまくやって来た。
だが現実は、ひまりのこの経験則を容易に打ち壊してくる。
──カサカサカサカサ。
足音が速くなった!
ダメだ、掴まる!
恐怖のあまり、だったのか。
ここでひまりは、なぜか、振り返ってしまった。
後ろを。
そして見る。
その影を。
ゴスロリ少女が、一直線にひまりへと這い寄ってきているその姿を。
人の身体では、出せない速さ。
光景ごと、みるみる迫り来る異常な感覚。
「キャアアアアアアアアア!」
もう、背に腹は代えられない。
悲鳴を上げても、逃げられたらそれでいい!
悲鳴を上げながら、ひまりは逃げる!
手毬を手放せば良かった。
だが、それが出来ない。
放り出すという思考そのものが削り取られたみたいだ。
──と。
突然、足音が止んだ。
それでも悲鳴は止まらない。続く。
「助けて! 助けて! お父さん! お母さん!」
その声が闇に吸い込まれていっている気がする。
床下の先の光も、やけに遠く感じられる。
そのひまりの上。
手毬を抱えて、這って逃げ出しているその上。
拝殿の床板が、ギシリと音を立てた。
ひまりは見ない。
上を見ない。
だが、その見えない“重さ”は、確実に、
床下の天井にへばりついている。
上だ。
次は、
上にいる。
「八ノ宮神社」…ひまりの実家。八大龍王を祀ってあり、過去に崇徳上皇がこの地に参拝に来たとの伝説がある。
【撮影】愛媛県八幡浜市勘定「宮嶋神社」。広島の宮嶋さまが流れ着いてきたとされる地。過去は女性の立入禁止で、この地区には過去、お産の時に、妊婦は畳一畳分のスペースから出てはいけない、宮嶋様は女性の血を嫌うから、という風習があった。




