第241話 瑚桃の部屋
第241話
ごぼ……
水の底で、空気が潰れるみたいな音がした──
秋瀬瑚桃は、反射的に窓を振り向いた。
ベッドの上で組んでいた脚がほどけ、ショートパンツの裾がくしゃりと寄る。
まだ少し子どもっぽさの残る脚線。
けれど、最近はスカートもショーパンも、前より似合う気がしている。
それを鏡で確認するのが、密かな日課だ。
ごぼ……
(え──。なに……!?)
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
だが、カーテンの向こうは相も変わらず灰色だった。
光はある。
けれど、それはさっきからずっと同じだ。
昨晩から、晴れない。
『濃霧』が。
こんなこと、水城市では一度もなかった。
(今の……外? それとも……)
部屋の中は静かだ。
動画は止めたはずなのに、
スマホの画面だけが、やけに白い。
瑚桃は、ベッドから起き上がり、窓へと近づいた。
カーテンを、少しだけ指でつまんで開く。
窓の外ではいまだ『濃霧』。
白というより灰色。
渦巻いて見えるのは、風でも吹いているのだろうか。
背伸びしたり、額をガラスに近づけたりする。
──おでこ、冷たい。
最近、少しだけ伸ばし始めた髪。
その髪が、さらりと肩を滑った。
(……気のせいか──)
そして再び、勢いよくベッドへ飛び込んだ。
ズシン。
スプリングが軋む。
寝転んで、スマホを顔の上に掲げた。
「つまんな……マジで、世界終わるならちゃんと盛り上げてほしいんですけど」
ショート動画は、この水城市の異変のことばかりだ。
それでいて内容はない。いや、内容はすべて同じ。
──水城市の濃霧が、昼になっても、晴れません。
情報規制が敷かれているから仕方ないとはいえ、瑚桃の方が情報を得ていた。
表に出ていない情報なら、瑚桃の方が詳しい。
瑚桃の父は警察署長である。
昼になっても晴れない異常な濃霧現象。
その霧の中にいるのは『ゴースト』だけではない。
モンスターがいる。
ゴブリンにトロール、それとドラウグル?
どこのRPGだよ、ってやつ。
あと何だっけ──
ちなみに、ドラウグルについては瑚桃は知らなかったため、ネット検索したのだった。
それにしても、余計な人のLINESばかりが来る。
広く浅く交友関係を持っているから仕方ないが、欲しい人からの連絡が、ない。
──パパ。
既読のつかないトーク画面を、親指で何度も開いては閉じる。
開いて、閉じて。開いて、閉じて。
最終オンラインは08:17。
既読がつかないことより、既読がついたあとに何も来ないほうが、よけい心配になる。
(あー。もう忙しくて何がどうすればいいか、分かんないんだろーなー。っつか、スマホで家族に連絡なんてどころじゃないんだろーなー)
それでも、この『濃霧』の異常については教えてくれた。そして瑚桃への命令はこの一点。
「──絶対、外に出るな」
その声は、怒鳴りではなかった。
命令でもない。
ただの、父親の声だった。
まあ、そりゃあ、そうだろう。
でも、瑚桃は密かに思っていた。
──実は、家にいるより、センパイん家にいた方が安全なんじゃね?
あの江戸岡交差点での決戦。
翔太は、セクメト女神の力を引き出すとともに、ついに「マギカ2nd」を発動した。
妖怪や天狗たちを相手に、一歩も引かないその姿は、もはや瑚桃が知っていた、あのどこか頼りなくて優しいだけの翔太ではない。
──超人。
警官なんて話にならないほどの超常的な力で、瑚桃も守ってくれた。
さらには、あのメイド服姿のデルちゃん。それに猫のシャパリュ。
あれだけの戦闘能力を持った魔物に守られているあの家より、安全な場所はないのではないだろうか。
そう思って打ったLINES。
センパイへのメッセージ。9:15 既読無視。
(これは、あれか~!? 通話しろってことか~!? 実はかわいい後輩からの声を待ってますってことなのか~!?)
都合よく考えてしまうのは瑚桃のクセだ。
にやける。
「バカ。調子乗んな」
自分で自分にツッコミながらも。
鏡の前に立つ。
前髪を整えて、唇をきゅっと結ぶ。
「よし」
鏡の中の自分と、目が合う。
「……子どもじゃないし」
小さく言ってみる。
誰に見せるわけでもないのに、背筋を伸ばす。
警察署長の娘。
水城市で一番ヤバい事件の渦中。
Tシャツの裾を引っぱって、少し考える。
あんまりラフすぎるのも、なんか違う気がする。
そして。
ボスッ。
ベッドの上に正座する。
準備は万端だ。
やっぱり、センパイに電話しようとすると、少し気合が入ってしまう。
画面を開いて、通話ボタンを押す。
押そうとする。
通話ボタンを押す直前。
ふと、部屋がやけに静かなことに気づいた。
さっきまで遠くで鳴っていたサイレンが、いつの間にか消えている。
霧は動いている。
けれど、町が息をしていない。
まるで、水の中みたいに。
(なんだろ……?)
気にしてないつもりだった。
でも。
──あれ?
ちょっと指が震えている。
こんなこと、最近では、滅多になくなったのに。
(も~! アタシらしくないな~)
そう強がりながらも、今度はしっかりと通話ボタンをタップした。
プッ、プッ、プッ。
電波は、生きている。
瑚桃は深呼吸して待つ。
背筋を伸ばす。
着信音が鳴った──
(──よしっ!)
瑚桃の行動力は一級品だ。
だが今、その胸が、きゅっと縮む。
「センパ……」
口を開く前に、翔太がまくし立ててきたのだ。
『瑚桃! 無事か? 家から出てないだろうな? ちゃんと自宅にいるか?』
──心配から入ってくれる。
(なんだかんだ言って、センパイ、ほんと、そーゆーとこ、ですよ)
瑚桃の心があったかくなる。
だが、次の言葉で、瑚桃の顔色も変わることになる。
『瑚桃、よく聞け。葉山さん──』
その声は、いつもの翔太じゃなかった。
あたたかさがない。やさしさもない。
余計なものだけが、削ぎ落とされている。
さっきまで鏡の中の自分ばかり気にしていたのが、
ひどく軽く思えた。
『お前、葉山さんの従姉妹だよな! 葉山さんも大丈夫なのか? 邪神ロキに襲われたりしてないか──!?』
──え。
今、なんて言った……?
アタシのことよりも、ひまりちゃんのこと?
それに。
邪神……?
聞き間違いかと思った。
だって。
襲われる……?
──いや、聞き間違いじゃない。
センパイは、確かにそう言った。
アタシが、センパイの言葉を聞き間違うわけがない。
瑚桃の動きが、止まる。
その直後、耳鳴りが、ひとつ遅れてやってきた。
じわり、と冷や汗がにじむ。
(うそ……なんで……アタシ、汗、かいてる……)
電話の向こうで、翔太の声だけが続いている。
『もしもし? 瑚桃? 聞こえてるのか?』
その声に、わずかな違和感が混じった。
──え?
思わず、画面を見る。
ERROR: ACCESS_POINT//OPEN
SIGNAL_LOKI::PING
(……なんだ、これ……?)
わからない。何が起こったのか。
だがその文字列を見た瞬間、画面の奥で、何かが“こちらを認識した”ような気がした。




