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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第240話 神表流エクソシズム③

第240話


 霧の奥で、龍雅の笑い声が聞こえた。


「ハハ……嘘だろ」


 乾いた声だった。

 笑っているのか、呆れているのか、怖気づいているのか。

 龍雅自身にも、わからないのかもしれない。

 ただ、その声だけが霧の中に溶けて、消えた。


 疋田は無言のままだ。

 動いていない。

 息をしているのかすら、わからない。

 だが、その圧だけが、確かにそこにある。

 疋田が何を考えているのか、表情からも、仕草からも、何も読み取れなかった。


 一体、目の前でなにが起こったのか、野津でも整理できない。

 だが確かに、この神表と名乗る後輩学生は、ドラウグルと呼ばれる化け物たちを倒した。

 しかも一瞬で。

 あの十字架に架けられた死霊たちも見た。

 それが『濃霧』とともに、音もなく消えたことも。


(あれは現実だったのか……?)


 その「あれ」が、どこからを指しているのか。

 病院からの脱出からなのか、ドラウグルに囲まれてからなのか。

 それとも、神表の、まるで魔法のようなその力を見たからなのか、野津でもわからない。


(こいつの言っていること、やってること……まさか、俺はずっと夢でも見ていたんじゃないだろうな……)


 混乱する。

 左耳の傷が脈打つ。

 痛みだけが、今ここにいることを証明していた。

 そんな野津を尻目に、神表は飄々と続ける。


「まあ、悪魔祓いの技と相性のいい相手で良かったですよ。おかげで、楽に倒せた。でもドラウグルなんてものが出た時点で、ここで安心するのは気が早いっすよ。次は何が現れるか──それは俺にもわかったもんじゃない。だから、先輩たちは、そこの漁協の中へ避難しててください。ここ危険」


 その時、霧の中で、何かが──

 ごぼ……

 と鳴った。


 その不気味な音に、野津は一瞬、怯む。

 だが。


(──今は、こんなことで心折れてる場合じゃない……)


 野津の腹の底で、何かがもう一度、燃えた。

 気力は尽きかけている。血も、止まらない。

 だが、ここで折れたら、残してきた命に顔向けできない。

 だから、野津は神表にこう告げる。


「いや、まだ避難するのは早え……」


 その言葉に、神表は眉を上げる。


「へえ……」


 野津は拳を握りしめた。


 ──そうだ。俺は病院のやつらを放ってはおけねえ。


「神表と言ったな。助けてくれたことには、感謝している。

 だが、俺たちが避難して終わりってんじゃ、納得いかねえ。終わりにできねえ理由がある」

「……と、言うと?」

「市立病院に、生き残りがいる」


 野津の声がゆっくりになった。

 大丈夫だ。もう落ち着いている。

 まだ動揺が残る自分に、そう言い聞かせる。


「俺たちは、皆を残してきたんだ──救うために」


 その時だった。

 霧の中から、白衣の裾が見えた。

 保健教師の原田だった。

 バスの中から、手探りでここまで来たのだ。

 白衣は血と泥で汚れ、足元がおぼつかない。

 それでも、来た。


「ねえ……何……何なの……?」


 泣く力も残ってない声。

 そして、神表を見る。


「あなた……うちの制服……着てる……けど」


 神表は笑う。


「まあ、見回りっすよ」

「ふざけないで……!」


 原田先生の声が掠れる。

 だが、ここで揉めてる場合はない。

 野津は、原田先生の前に立ちふさがった。

 そして、神表に告げる。


「市立病院には……『ゴースト』もいた……ゴブリンも……トロールも……。病院が取り囲まれてるんだ。中には、患者も……医者も……まだ、みんな残っている」

「市立病院……あそこか……」

「俺たちは、その市民全員を助けるためにここに来た。この漁協にあるコンテナトラックを使ってな。安全な場所に運搬するつもりだった。まだ、その途中だ。ここで、避難して終わりってわけにはいかないんだ」


 神表は少しだけ黙った。

 何か、考えているようだ。

 だがその沈黙は、数秒で途切れた。


「なるほど。それで、路線バスでねえ……でも」


 すべて納得したといった表情を見せた後、神表は言った。


「……必要ないっすよ」

「は?」


 思わず野津は、神表を睨みつける。

 だが、次の言葉で、呆気にとられてしまった。


「俺が行きますから」

「……え?」


 普段、男気あふれる野津らしくない反応だった。


 なぜなら。


 その神表の言葉が、軽い。

 声色も軽すぎて、立て直しかけた心が、また崩れそうになったのだ。


 野津は言いかける。


「お前……何言って――」


 だが神表はもう向きを変えていた。


「だから。俺が行きますって。先生も先輩たちも、漁協ビルで避難しててください。あと、そこの他校の人たちも」


 再び、野津の左耳が脈打つ。

 血がまた落ちる。

 ぽた、ぽた。


 神表は霧の向こうに目を向けて言った。


「こんな現象を起こしたヤツに、心当たりもあるんでね」

「心当たり……?」


 神表は短く言う。


「北欧」


 小野山が折れた鼻のまま唸る。


「……ここ愛媛だぞ」


 神表は笑った。

 そして一拍だけ置いて。

 言った。

 その神の名を──


「ロキ」


 その名前を言った瞬間、霧の音が変わった。


 ざわざわ、が──

 くすくす、みたいに聞こえた。


 それを、今井の声がさえぎった。かすれた声で。


「……ロキ……?」


 かすれた声だったが、その目には、かすかに光が戻っていた。

 知識が、恐怖より先に、今井を引き戻したのだ。


「ロキって……北欧神話の……?」


(北欧神話?)


 野津は息を呑む。

 野津は、そんな神話知らない。


「知ってんのか……今井」


 今井は小さく頷く。


「ロキっていうのは、北欧神話でも有名な悪戯の神よ。あと、世界が終わるきっかけになる神とも言われているわ」

「世界が、終わる……?」

「北欧神話には、そう書かれているの。私、これでも読書は好きだから、それぐらいなら知っている」

「そ、そのロ、ロ……」

「ロキ」

「そのロキってヤツが、今、こんな恐ろしいことを起こしているっていうのか?」


 神表は、その会話を切るように言った。


「ああ、もう、面倒くさい。時間ないんすよね、先輩。じゃ、行ってきますわ。ちゃっちゃっと病院まわり掃除しとくんで」


 野津が叫ぶ。


「待て!」


 だが神表は振り返らない。

 ただ、木刀の先で空をなぞる。


 ぐるり。


「Claudite limen.(境界を閉じろ)」


 霧の中に、「線」が走った。

 文字でもない。模様でもない。

 強いて言えば──世界に、縫い目が入ったみたいだった。

 それが、地面と空気の境い目に、静かに貼りついた。


 そしてこう言う。


「ここ、守っときます」

「守る?」

「一応、結界張っときました。ゴブリンやトロール程度の弱い魔物なら、入り込めないはずですよ」


 何が何だか分からない野津は、黙り込むしかない。だが。


「あ」


 と神表はもう一度くるりとこちらへ向き直り、こう付け加えた。


「ただし、眠らないでくださいね。この中の誰か一人でも寝ると、影に持ってかれるんで」


 冗談みたいな声だが、冗談に聞こえない。

 それだけは、わかった。


「じゃ。漁協ビルの中へ! くれぐれも眠らないように」


 その直後だった。

 足音が、消えた。

 追う間もなかった。


 野津はその場に立ち尽くしていた。

 左耳からはまだ、血が落ちていた。


 ぽた、ぽた、と。


 霧だけが、何も知らないように、静かに流れていた。

 そして。


 霧の中のどこかで、また、


       ごぼ……


   ごぼ……


 と、何かが鳴った。


 それが、どこから聞こえているのかだけは、

 最後まで、わからなかった。

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