第97話 魔王の巣窟
第97話
あの夢と、奇妙な囁き声のせいなのだろうか。
その日は葉山ひまりにとっても、朝から奇妙な一日だった。
普段より、目にする“怪異”の数が多いのだ。
「いってきまーす……」
そう言って玄関を出た瞬間、いきなり目に入った。
小さな女の子。着物姿。うりざね顔。
それが、大人の一歩分ほどの至近距離から、ひまりを見上げていた。
――いつから、そこに立っていたのか、分からない距離で。
「…………!」
ひまりは息を呑む。
だがその少女は、何も言わず、何も求めず、ただただこちらを見上げているだけ──
(……合わせちゃ、ダメだ。目を合わせちゃ、ダメだ)
気づかないふりをする。
見えないふりをする。
そのためには、この少女を避けて歩けば、妙な回り道をする形になる。
それは「見えている」と告げるのと同義だ。
一度、ぎゅっと目を閉じた。心を決めるために。
そして、スッ、と。
何事もないかのように。
普通に一歩を踏み出す。
それだけで、重なる、
少女と。
内臓がひやりと裏返った。
さらに足を踏み出す。
また足を出す。
少女の霊が、体内をすり抜けていく。
(う……)
我慢、我慢だ……
冷や汗を流しながらも、ひまりは少女をすり抜けることに成功する。
決して背後は振り返らない。
たとえ、こちらを見られていたとしてもだ。
自然に早足になった。
背中に、少女の霊の視線を感じる。
急いで自転車に乗る。
そして、玄関をあとにした……
だが、それだけではなかった。
そこから自転車で学校へ通う間。
いつもより多くの“怪異”が、通学路で、ひまりを待ち受けていた。
通り道の家の松の木の枝からは、ぶら下がっている武士の生首。
こちらをギラリとした目で見つめている。
(見ちゃだめ、見ちゃだめ……)
キラキラと光る海原には、無数の手が蠢いている。
海面のきらめきに合わせ、ぱたぱたと手のひらを開閉している。
(気づかないふり、気づかないふり……)
次には、海から這い上がってくる、防空頭巾を被った母と子。
船着き場の縁で捕まってこちらを眺め続けている。
(……どうして、わたしを見るの……!?)
普段ならば、霊の視線が毎回、こちらに向けられることなどなかった。
だが今日は違う。
そのどれもが、必ずひまりを見ている。
まるで、何かが起きるのを、待っているかのように。
海から生えた手などは、その手のひらを向けて「待ってるよ」と手を振ってくれているかのようにも思えたほどだ。
ひまりの通学路。防獣頭巾をかぶった母と子の霊や無数の手だけの霊が現れた現場。
【撮影】愛媛県八幡浜市杖ノ裏。市街から勘定地区に向けて海岸通りとなっており、多くの漁船が、のんびりと波に揺られている。
学校に入ってからも状況は変わらなかった。
廊下に現れる異形の者たちの数が多い。
普段なら、弱い物の怪が生徒にまとわりつき、かばんへ潜り込み、軽く取り憑いたりする。
弱い霊であるため、それほど悪さをするわけではない。
だが今日は違った。
やはり、見てくるのだ。
それらのすべてが。
ひまりを。
廊下の隅で、ただ立ち、ただ見てくる。
それでも、何かしてきたり、何かをしようとする気配はない。
(今日は、多い……)
無意識に指先が甘皮へ伸び、はっとしてやめる。
昨晩見た夢と何か関係があるのだろうか、とも思った。
(それに、どうして、ここでも、わたしを見てくるの……!?)
授業中ですら、そうだ。
教師が、蛇のような影にまとわりつかれている。
その目は、ひまりを淡々と見てくる。
しかし、授業は何事もなく進む。
もちろん、生徒たちにそれは見えていない。
気づいているのは、ひまりだけだ。
(どうして……どうして……! 今日はおかしいよ……)
それらの霊は皆、合図を待つ舞台袖の群衆のようにも感じられた。
ついつい、ひまりも「昨晩見た夢のせいだろうか」と考えてしまう。
夢の中で、お腹の中から聞こえてきた声はこう言った。
『──主が悪霊どもを滅ぼす巫女。主だ。主が我が手足となる』
過去の記憶の北藤翔太少年はこう言った。
「ここから先へは行ってはダメだよ」
その声が、重なって脳裏に響いてくる。
ひまりはぎゅっと拳を握りしめた。
通学中は快晴だった空も、いつの間にか重く暗い雲に覆われてしまった。
どんより薄暗い雰囲気が、教室内に不穏な空気を作る。
その垂れ込めた雲から、大雨が降る予兆であろう、小さな稲光がきらめく。
低い雷鳴が、腹の底で転がった──
◆ ◆ ◆
ほぼ同時刻。
海沿いの人目につかない洞窟の前。
国際魔術会議の、八雲在斗班と大熊班のエージェントたちが注意深く、その周囲を取り囲んでいた。
「あれ。大熊さんはまだ、連絡が取れないんですか?」
八雲在斗が高木英人に聞く。
「それが昨日の夜から行方不明で……。携帯も電源が入ってないんです」
あまり、八雲の目を見ないようにして答える。
高木は八雲を信用していない。
だが相手は日本支部の上層。
一応、表情には出さぬよう努める。
「ふうん……」
八雲は、何か考えるような表情をしたが、「まあ、いいでしょう」と洞窟の入口に立った。
(やけに、あっさりしてるな)
高木は怪訝に思う。
その八雲は、その小さな洞窟の入口を見回し、小さく「なるほど」と言った。
「大熊さんの件は、あとでこちらからも捜索班を出しましょう。まずは、この洞窟です」
くるりと八雲がこちらへ向きを変える。
「報告通り。ここから強い瘴気が流れ出しているのは間違いないようですね。ただ、結界のようなものが張られているようです。東洋や中東のものではない。明らかに西洋魔術。誰か、西洋系魔術に特化してる人はいますか?」
「はい! 俺に任せて下さい!」
八雲班の一人が手を挙げ、八雲の隣に立った。
その班員に八雲は訊く。
「どう思います? この結界?」
「西洋魔術系ですが、おかしいですね。性質は対人ではなく、対“魔”になっています」
「つまり、人間には何の影響もないと?」
「そういうことになります。まるで魔物に見つかることを警戒しているような……そんな結界です」
「なるほど。それは非常に興味深い」
「まさか、人間がここを見つけるとは思っていなかったんでしょうか……?」
その班員の疑問はもっともだ。
だが、八雲は、それよりさらに、明快な回答を見せた。
「いえ。これでより、ハッキリしました。”魔”を警戒している──それはすなわち、複数の魔の者が今、この水城に存在し、しかも敵対関係にあるということです」
これにはなるほど、と高木も思った。
同じ魔の者でも、敵対者がいなければ、結界を張る必要なんてない。
「おそらくこの結界自体、魔の者が張ったものだと推測されますが、合ってますか?」
「驚きました。その通りです。これは人の手による者ではありません」
「決まりですね」
八雲はあっさりと、結界の謎を解いてしまった。
(この若さで上層部でいられるわけだ)
高木も感心する。
「我々が把握しているのは、魔王レラージェとセイテンタイセイ。ですが、セイテンタイセイの線は薄い。あれは、こんな見つかるような結界は残さないでしょうから」
「では、……魔王レラージェがこの中に……?」
「いや。それもないでしょう」
八雲の笑顔と裏腹に高木はゾッとした。
その頭脳もそうだが、あまりにも断言するような言い方に違和感を覚えたのだ。
「悪魔はずる賢い。もしこの中にいるのが魔王であるならば、この洞窟そのものを、不可視の魔術で見つけられなくしているはずです。こんなに簡単に見つけられる結界、魔王が張ると思いますか?」
「では……?」
「使い魔のたぐいでしょう」
八雲は涼しい顔で答えた。
「それもほぼ間違いなく魔王レラージェの使い魔。それが何者かは分かりませんが……じゃ、気合い入れて入ってみましょうか」
「入るのか!?」
思わず高木が叫んだ。
叫んだ後で、敬語を忘れていたことを思い出す。
だが、八雲はそんなこと気にもしていないようだ。
「入りますよ。いけませんか?」
高木は自分の武具である、棍を握りしめた。
「いや。だって、魔王……相手は魔王なんだろ? その使い魔……。どれだけ強力なヤツが潜んでいるかわからないじゃないですか!?」
「かもしれませんねえ」
「かもしれませんって、あんた……!」
「そんなに怖いですか?」
「警戒するのは当然でしょう!」
魔王──、
その使い魔。
魔王という恐ろしい響きに、大熊班の班員たちも及び腰になっている。
だが八雲班は、どこか違って見えた。
八雲を信じ切っている、そんな目だ。
つまり、八雲は、それほどの危険はないと、すでに心の中で判断をしている。
じゃなければ、班員たちを連れて「入る」なんて、言わないはずだと。
(どれだけ人心把握術がすぐれているんだ、この男は)
高木は、八雲の能力に圧倒され放しだ。
これが、国際魔術会議の上層の人間か──
そんななか、八雲はポケットに手を突っ込むと、飴の包みを取り出した。
そのまま口へ放り込む。
「私の直感では、この洞窟は、あまり出入りがない。魔王の使い魔が何かの用途で使っている拠点の一つに過ぎないと思いますよ。あと、安心してください。探索は八雲班の方で行います。大熊班は、大熊さんもいないことですし、後方支援で。あと、ここに地域の住民が間違って迷い込んでこないよう、道の封鎖をお願いします」
(なん、だと……?)
それじゃ、ガキの使いのような扱いではないか。
侮辱だ。そもそも大熊班は、怪異対策のエキスパートばかり。
なのにそれじゃ、大熊班が、警備しか能がない部隊だと言わんばかりじゃないか。
そんな高木を見て大熊班も顔を見合わせる。
腹が立つのは、八雲は、それを侮辱しているのだと気づいてもないし、
そもそも当たり前の指示じゃないかとばかりに、平然としているところだ。
そんな八雲は、洞窟を覗き込みながら、こう言う。
「それでもこの瘴気……。中に、何もないってことはないでしょうね……」
舌でキャンディーを転がしながら。
「警戒するに越したことはない。高木さん、大熊班の方は頼みましたよ」
「……はい」
「もし、人間ではない、何者かが接近……戻ってきた場合、すぐに連絡をすること。信用していますよ」
悔しい。その、慇懃無礼さが腹立たしい。
だが。上官の命令だし、指示も的確ではある。
従わざるを得ない。
「分かりました。魔の接近を察知したら、すぐに報告します」
その高木の言葉に、八雲は満足そうに頷いた。
高木の顔色をまるで見ることもなく。
「よ~し。じゃあ、八雲班、行くよ。何が飛び出してくるかわからないから、警戒レベルは2に。目的は、ここに何があるのか、探るってこと。万が一、ヤバいのがいたら、無線ですぐ報告。報告あり次第、退避」
「イエッサー!」
八雲班が一糸乱れぬ敬礼をする。
まるで軍隊のようだ。
それでも高木は八雲が信じられない。あっさりと敵を特定したり、それが魔王なんてとんでもない存在であっても怯まなかったり。
そしてなぜか、女子高生をナンパしたり。
一体、この男は何者なんだ──!?
そんな八雲について、八雲班の面々はゾロゾロと洞窟へと入って行った。
同時に。
結界が触発され、突風めいた瘴気が外の高木たちへ吹き付ける。
「くっ……!」
八雲のポケットからこぼれた飴の包みが、風に転がって洞の奥へ吸い込まれた。
(大熊さん……)
その飴の包みを見ながら、高木は大熊の名を呼ぶ。
(何かが、おかしくなってきている……。ここは、もうこれまでの水城とは違う……。早く、帰ってきてください、大熊さん!)




