第96話 葉山ひまり覚醒前夜
第96話
葉山ひまりは夢を見ていた。
それは小学生時代の夢。
当時からひまりは、目立つことを恐れていた。
それは、自分が“見て”しまうから。
怪異。
こんな話をしたら、怖がって誰も私に近づかなくなってしまう。
つい余計なことを口走らないか。
気にしているうちに、自己主張はますます薄くなる。
指先が甘皮をいじりかけて、すぐ膝の上に戻す——
その癖だけが、当時から抜けないでいた。
そんな、ひまりにも当時、気になる男子はいた。
北藤翔太。
人一倍、身長の小さい子だった。
成績は学年でトップクラス。
作文、美術、工作などでは多くの賞を受賞していて、学校集会でもほぼ毎週のように登壇。
壇上で、校長先生から賞状をもらう姿をよく見てきた。
極めつけは音楽の授業だった。
翔太は、オルガン系の楽器を習っていた。
その腕前は有名で、音楽の授業でも、
始まる前に翔太がピアノを演奏するのが、習慣となっていた。
ひまりも、音楽の授業で次に翔太が何を披露するかが楽しみで、
その指から奏でられる音楽に「すごいな」と憧れの念を抱いていた。
いつもは伏せがちな目を大きく開いて、音だけを追うように聴いている時のひまりは、まるで息を潜めた小動物のようだった。
だが、その翔太の特技が、男子たちから妬みを買った。
いじめ。小さいくせに目立ちすぎたのだ。
クラスには、男子と一緒になって翔太を嫌い、いじめている女子もいた。
ひまりは、その女子たちから目をつけられたくなかった。
だから、“見て見ぬふり”をしていた。
そして、忘れられない出来事。
ひまりは、その当時の夢を見ている。
放課後。
ジャングルジム。
そこにクラスメイトたちの数人が集まっていた。
「何をしているの?」
そう聞くまでもない。
ジャングルジムの中には翔太がいた。
取り囲んだクラスメイトは、外から、翔太を目掛けて、石を投げていた。
翔太は、ジャングルジムの中を逃げ回る。
遊び。
そう。彼らの意識の中では、それは単なる遊びだったに違いない。
“見なかったふり”をして通り過ぎようとした。
「あっ、ひまりー!」
ところが、見つかってしまう。
「ひまりもやろう。ゲーム」
──ゲーム? これが……?
思わず翔太の方を見る。
ジャングルジムの中には、翔太の怯えた目があった。
気になっている男子の、助けを求めるような目。
「北藤、すごいんだよ。石投げても、全然、当たらないの」
「すごい素早いの。ひまりも見てみてよ」
方々から投げられる石。
翔太は石を避け、ジャングルジムの中を、右へ左へ、上へ下へと器用に逃げ回る。
体の小ささ、軽さが幸いしている。
単に体が小さいだけで、運動神経そのものは卓越していたのだ。
男子たちは「なんだよ」「誰か当てろよ」など、ぶつぶつ言っている。
だが当たらない。
翔太はすべてかわす。
やがて投げる石もなくなってくる。
「おーい。石、拾ってきたぜー」
このゲームとやらに終わりはなかった。
男子が両手のひらいっぱいに、手頃な石を持って走ってきた。
なんて余計なことをしてるんだろう。
「よっしゃ。弾、増えた」
「もう逃さねえからな」
「当てるまでは、帰さねえぞ」
その笑顔からは、恐ろしいほど“悪意”が感じられなかった。
ひまりは「これが人間の本性か」と震え上がった。
(もし、わたしも、お化けとか見えちゃうことバレたら、こんなふうにいじめられるのかな……)
翔太は何も悪くない。ただ、目立っているだけ。
人と違えば、いじめられる。
ひまりは、身震いした。
このいじめを止めようとすれば、今度は自分が目立つ。
そうしたら、次に標的になるのは、
──わたし。
「頑張れー! 北藤!」
ひまりの友人の女子も翔太を応援している。
だが、本音では石が、翔太に当たるのを見たがっている。
血が見たい。
見たら後悔するのは分かっている。
なのに、本能から沸き立つ好奇心を幼い精神が制御できないでいる。
先生は、何をしているのだろうか。
誰か。大人。来て。——やめさせて。
気になっていた男子がいじめられている姿。
これまで何度も見てきたが、ひまりは助けられたことがない。
先生に報告することも出来た。
だが、それだと「チクリ」と称され、ひまりが悪者にされてしまう。
そんな時、悪魔の囁きがひまりの耳を撫でた。
「ひまりも、やってみようよ」
満面の笑み。
石を渡される。
これは、自分たちが何をしようとしているか、まるで分かってない笑顔だ。
(どうして、私まで……!?)
動揺する。迷う。悩む。
だが、これを断ってしまったら。
自分だけが、良い子でいたとしたら。
──それもまた、自分がいじめられる原因にもなりかねない。
渡された石を握りしめる。
それを、わざとまったく見当違いの方向へ投げる。
石はジャングルジムを大きく逸れた。
ひまりにできる抵抗。
「やめなさいよ」と言えない弱い自分ができること。
それは、翔太を傷つけないこと。
やっている風を装うこと。
それ以外思いつけなかったのだ。
だが。
その時、目が合った。
ジャングルジムの中の、翔太と。
その目は、まるで懇願しているかのようだった。
なのに、ひまりには、こう言っているように感じられた。
──お前もか。
と。
ひまりが、翔太から距離を取るようになったのはそれからだ。
自分はきっと、嫌われてしまっただろう。
──こうして、ひまりの初恋は終わった。
その夢のなかで、否応なく襲ってくる罪悪感。
結局、翔太は逃げ切ることができなかった。
石は、当たった。
血が出た。
その血を見て、同級生たちは「やべえ」などと言いながら散り散りに逃げていった。
翔太を残して。
だが、ひまりは、それを責められない。
止められなかった。
その上、自分までも、逃げてしまった。
その時に見た、翔太の血。
それが恐怖として、ひまりの心を侵蝕していく。
恐怖は別の恐怖を生む。
やがて恐怖は重なっていき、罪悪感を越えていく。
その、罪悪感が見せた、幻だろうか。
――“裏”宮区。
夢は、また舞台を変える。
それは、新川沿いの住宅街。
宮区と呼ばれる地区にある、ひまりだけが知っている“怪異”のひずみ。
祭ばやしが聞こえた、幻想のなかにだけ存在する路地。
“鬼”のようなものが潜む、幻想の街。
ひまりが、翔太を避けるには、もう一つの理由があった。
いじめに加わったことで、初恋が終わった……ただ、それだけではない。
ひまりは、見たのだ。
当時、“裏”宮区の入口で。
そこに、翔太が、立っていたことを。
これは、瑚桃にも、蒼にも、言えなかった。
言えば、何かが、終わる気がしていた。
そう、あの時。
“裏”宮区の入り口に立っていた、小学生時代の翔太は、こう言った。
「ここから先へは行ってはダメだよ」
確かに、翔太だった。
翔太のその言葉が夢のなかで繰り返される。
「ここから先へは行ってはダメだよ」
「ここから先へは行ってはダメだよ」
「ここから先へは行ってはダメだよ」
なぜ、あの時、あそこで翔太を見たのか。
“裏”宮区自体が夢で、罪悪感に苦しむひまりが見た幻影なのか。
ひまりには、分からない。
だが、翔太の家へ連れて行かれた時、ひまりは、はっきりと感じた。
翔太が持つ、”もう一つの目”が、自分に注がれていたことを。
それが、何だったのか分からない。
これも罪悪感が見せた幻だったのかもしれない。
だが、そこには驚くほどの、恐怖があった。
ひまりは、うなされる。
夢が、その恐怖が、ひまりの心を、押し潰そうとしてくる。
息が浅くなるほど、音だけがなぜか大きく聞こえた。
その違和感で、夢の中の視界が狭くなる。
そんな夢のなかで、ひまりは、ハッキリとある声を聞いた。
過去に、何度か、聞いたことある声。
よく、夢のなかで、ひまりが聞いていた声。
これまでは、それが何を言っていたのか、あまりにも遠くからだったので、ボソボソとしか聞こえなかった。
だが、その日の夢のなかでは、ハッキリ、“言葉”として聞こえてきた。
その“声”は、こう言っていた。
『我を見るなどと、不敬もはなはだしい』
と。
そして、
『──悪霊どもの我が庭での悪さ、許すまじ』
と。
思わずひまりは夢のなかで聞き耳を立てる。
『──悪霊どもの我が庭での悪さ、許すまじ』
再び、声は同じ言葉を繰り返した。
「誰!?」
夢でひまりは叫ぶ。
夢の中で、周囲を見回す。
誰もいない。
しかし、ひまりの夢は途端に、黒雲に呑まれる。
触れてはならぬものに、触れてしまったかのように。
それを罰するかのように。
再び、聞こえる。
『──悪霊どもの我が庭での悪さ、許すまじ』
(この声……)
ひまりは、気づいた。
──この声、わたしのお腹の中から聞こえてきている……!!!
その“声”は繰り返す。
同じ言葉を。
一言一句変えず、同じ文言を。
『──悪霊どもの我が庭での悪さ、許すまじ』
そして、突如耳元で、ある言葉が囁かれた。
『——主が悪霊どもを滅ぼす巫女。主だ。主が我が手足となる』
「……!」
その“声”で、ひまりは飛び起きた。
朝日が窓から差していた。
寝汗でパジャマがぐっしょりと濡れており、布団の上で、ハアハアと肩で息をしている自分がいた。
顎下のボブが乱れて目元にかかり、ひまりは震える指でそれを払う。
珍しく、目が大きく開かれていた。
美しい瞳が露わになり――そこから現実が、ひまりの脳へと流れ込んでくる。
夢から覚めたのに、汗は次から次へと垂れてくる。
ひまりは、布団をぎゅっと掴んだ。
手のひらにかいた汗が、またたく間に、その布団を濡らしていく。
枕元の巾着の小さな鈴へ、指先が無意識に触れる——鈴の音が、皮膚の内側だけで震えた気がした。
(今の……何……?)
夢の中での声なのに、ハッキリと記憶に残っている。
長い首筋からも汗が垂れてくる。
汗で濡れて、色を変えていく布団。
そのシミが、ひまりには、どこかの“悪魔”のような顔に見えた。
いや。“見て見ぬふり”。
それをした瞬間、人は“悪魔”になるのかもしれない──
いまだ、夢の中の言葉が、ひまりの脳裏で反響し続ける
命令するように。
強制するように。
逃れられぬ悪夢よのように。
『——主が悪霊どもを滅ぼす巫女。主だ。主が我が手足となる』
その言葉と、夢のなかで翔太が言った言葉が重なった。
「ここから先へは行ってはダメだよ」
だが、すでにひまりは気づかず、その“先”へ、一歩を踏み出してしまっていた。
それは彼女がこの神社に生まれてしまった宿命ともつながっている。
翔太が幼少期に心の中で感じた闇。
過去、そして今現在、夢の中でも感じた闇。
心の奥底で、囁く声がまとう闇。
すべての闇が、共鳴し合っているように思える。
第三の理──
その言葉を、ひまりは、まだ知らない。
だが、この瞬間、この世と、第三の理の歯車は、噛み合い始めた。
破滅への時が静かに進み出す。
──カチリ、カチリ、カチリ、と。
窓からの光で、巾着の鈴の影が、畳に小さく丸まる。
それが、ひまりの肌の奥で鳴った時。
世界は、またこれまでとは異なる闇に包まれる。
第三の理という名の、まだ誰も知らぬ闇。
世界からすべての光と影を呑み込んでしまう、恐ろしい闇へ──
葉山ひまりイメージ




