第三十章 続きは、またいつか
第三十章 続きは、またいつか
凪は「町田凪」と書かれた本を開いた。
最初のページには、今朝の出来事が書かれていた。
午前九時半。
町田凪は、病院の自動ドアを抜けた。
夜間の患者のことを思い返し、申し送りに忘れはなかったか、やり残した仕事はないかと考えながら駅へ向かった。
凪はページへ顔を近づけた。
そこに書かれているのは、間違いなく自分のことだった。
駅へ向かう途中、化粧をきれいに整えた女性とぶつかったこと。
その女性が、ふらついた凪を支えてくれたこと。
顔色が悪いと心配され、近くにあるアロママッサージの店へ誘われたこと。
女性の身なりを見て、格好いいと思ったことまで書かれている。
「そんなことまで……」
凪は周囲を見回した。
店内には、誰もいない。
古い本棚が並び、そのどれにも本は入っていなかった。
凪は再びページへ目を落とす。
知らない人へついていくことを警戒し、玲奈の誘いを断った。
電車に乗り、眠らずに目的の駅で降りた。
いつもの商店街で、今まで一度も開いているところを見たことのない本屋を見つけた。
少し見るだけ。
そう自分へ言い聞かせ、扉を開けた。
そこまで読んだところで、文章が途切れた。
凪は次のページをめくる。
白紙だった。
さらに次も、その次も、何も書かれていない。
「この先は……?」
「まだ起きていないことは、本にはできないよ」
突然、店の奥から声がした。
凪は本を閉じ、顔を上げた。
いつからそこにいたのだろう。
小さな丸椅子に、一人の老人が座っていた。
白いシャツの上に、くたびれた茶色のカーディガンを羽織っている。膝の上には読みかけらしい本が伏せて置かれていた。
老人は丸い眼鏡を持ち上げ、凪を見た。
「おや、珍しいお客だね」
「すみません。勝手に本を開いてしまって」
「本屋に来て、本を開いたんだ。謝ることじゃないよ」
老人は凪の手元を見る。
「しかも、自分の本を選んだか」
「これ、何なんですか?」
「見てのとおり、町田凪という人の本だよ」
「それは分かります。どうして私のことが書かれているんですか?」
「そりゃあ、“町田凪”という本だからね」
答えになっていない。
凪は困った顔で老人を見る。
老人は悪びれる様子もなく、楽しそうに笑っていた。
閉じたばかりの本から、ぱらり、と音がした。
凪はもう一度、表紙を開く。
さきほどまで白紙だったページに、文章が増えていた。
――「そりゃあ、“町田凪”という本だからね」と、老人は答えた。
凪は息を止めた。
次の行には、こう続いている。
――凪は息を止めた。
「今のことまで……」
「その本は、あんたが歩いたあとを文章にしていく。少し遅れてついてくる影みたいなものさ」
「じゃあ、未来が書かれているわけではないんですか?」
「未来を知りたかったのかい?」
そう聞かれ、凪はすぐには答えられなかった。
知ることができるなら、知りたい気もする。
仕事をこのまま続けているのか。誰かと暮らしているのか。元気でいるのか。
けれど、すべてが先に書かれていたら。
自分はその通りに歩くしかなくなるのではないか。
「まだ起きてもいないことを本にしたら、あんたは書かれた道しか歩けなくなるだろう」
老人は、凪の考えを読んだように言った。
「ここにあるのは、その人が生きたところまでの物語だけだよ」
凪は手元の本を見つめた。
病院を出て、仕事のことを考えながら歩き、知らない女性の誘いを断り、帰る途中で本屋へ入った。
自分の一日を文章で読むと、ひどく地味に見えた。
「……つまらないですね」
「何がだい?」
「私の話です。仕事をして、帰っているだけ。今日はちょっと変わったこともありましたけど、それまでは毎日ほとんど同じです」
老人は膝の上の本を撫でた。
「本は、大事件が起きた日だけを書くものじゃないよ」
凪は顔を上げる。
「何もなかったように見える日にも、その人は何かを考えて、選んで、次の一日まで歩いている」
「それも物語なんですか?」
「誰もが、自分の人生という物語の主人公だからね」
老人は店内の空っぽの本棚を見回した。
「ここに並べきれないぐらい、物語はあるよ」
棚には一冊もない。
それなのに凪には、一瞬だけ、隙間なく本が並んでいるように見えた。
一冊ずつ題名が違う。
どれにも、誰かの名前が書かれている。
瞬きをすると、本棚はまた空になっていた。
「この本、買えますか?」
凪が尋ねると、老人は首を横へ振った。
「それは売り物じゃない」
「どうしてですか?」
「あんたの人生を、わしが売るわけにはいかんだろう」
もっともらしいような、やはり答えになっていないような言葉だった。
凪は本を閉じ、机の上へ戻した。
「もう帰ります。眠くて」
「そうするといい。主人公が倒れたら、続きが書けなくなるからね」
老人は傍らにあった細長い紙を一枚取り、凪へ差し出した。
古びた店の名前が印刷された栞だった。
裏返すと、短い一文がある。
続きは、またいつか。
「これは?」
「今日の記念だよ。そちらは持って帰っていい」
凪は栞をバッグへしまい、老人へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。いい続きを」
店を出る。
外の光に目を細めてから、凪は振り返った。
扉は閉まり、窓にはいつものカーテンが引かれている。
OPENの札も消えていた。
凪はバッグから栞を取り出す。
そこには今も、同じ言葉が残っていた。
続きは、またいつか。
凪はしばらくその文字を眺めた。
そして、自分の物語の続きを考える。
――凪は本屋を出たあと、疲れた身体を癒すため、ぐっすり眠りました。
頭の中で読み返し、凪は小さく笑った。
「……文才ないなあ、私」
それでも、今の自分には悪くない続きだった。
凪は栞を大切にバッグへ戻し、眠るための家へ歩き出した。
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結末 十五 続きは、またいつか




