第三十一章 あなたの物語
第三十一章 あなたの物語
凪は「あなた」と書かれた本を開いた。
最初のページには、一文だけ書かれていた。
ここまで読んだ、あなたへ。
「私……?」
凪は小さく呟いた。
ページをめくる。
そこには、今朝から凪が歩いてきた道が、少し変わった書き方で記されていた。
――あなたは、凪が同じ年頃の女性とぶつかる方を選びました。
――あなたは、凪がその女性についていかず、家へ帰る方を選びました。
――あなたは、朝早くから開いているパン屋ではなく、いつもは閉まっている本屋を選びました。
――そして今、「町田凪」ではなく、「あなた」と書かれた本を開きました。
凪は眉を寄せた。
「選んだのは、私だけど……」
「半分は、そのとおりだね」
店の奥から声がした。
凪は驚いて顔を上げる。
空だったはずの本棚の前に、一人の老人が立っていた。
白いシャツの上に、くたびれた茶色のカーディガンを羽織っている。丸い眼鏡の奥で、細い目が楽しそうに笑っていた。
「おや。今日は珍しいお客が二人も来たね」
老人が言う。
「二人?」
凪は店内を見回した。
細長い店の中にいるのは、自分と老人だけだ。
「私のほかに、誰がいるんですか?」
「あんたをここまで連れてきた人だよ」
「連れてきた?」
凪は入り口を見る。
誰もいない。
老人は凪ではなく、その肩越しへ目を向けていた。
そこに誰かが立っているように。
「誰に話してるんですか?」
「もう一人の主人公にさ」
「主人公?」
「あんたが自分で選んだように、あんたの選択を選んだ人がいる」
凪は老人の言葉を理解できず、もう一度、本へ目を落とした。
新しい文章が増えている。
――町田凪は、誰もいない店内を振り返りました。
そこまでは凪にも読めた。
しかし、その下には何もない。
「ここで終わってます」
「そうかい」
「続きはないんですか?」
「あんたに読めるのは、そこまでだよ」
老人は静かに答えた。
凪には白紙に見えているページに、文字が浮かび上がる。
ここから先は、町田凪には見えていません。
この文章は、今これを読んでいるあなたにだけ見えています。
町田凪は、あなたが選ぶたびに違う道を歩きました。
知らない男とぶつかる道。
玲奈という女性と出会う道。
電車を降りる道。そのまま乗り続ける道。
誰かを助ける道。誰かに助けられる道。
恐ろしい場所へ迷い込む道。
静かな朝を過ごし、家へ帰る道。
そのどれかを選び、あなたはここへ辿り着きました。
凪は老人へ尋ねる。
「この本は、誰の本なんですか?」
老人は笑った。
「題名に書いてあるだろう」
凪は表紙を見直す。
そこには、やはりあなたとだけ書かれている。
「名前も書いてないのに?」
「名前を知らなくても、その人の物語はあるよ」
老人は、凪には見えない誰かへ語りかけるように続けた。
「町田凪の物語を選んでいたその人にも、本の外で生きてきた時間がある。嬉しかった日も、腹を立てた日も、どうしていいか分からなかった日もね」
凪は本を机へ戻した。
「私には読めないんですね」
「あちらにはあちらの物語があるからね。あんたが全部を知る必要はないさ」
老人は入り口の扉を開けた。
朝の光が、暗い店内へ差し込む。
「さあ、あんたは帰ってお眠り。あんたの物語は、まだ続くんだろう?」
「そうですね。今は、とにかく寝たいです」
凪は老人へ頭を下げ、店を出た。
扉がゆっくりと閉じる。
店内には、老人と、開かれたままの本だけが残った。
老人は机の向こうへ座る。
そして、本の外にいるもう一人の客へ向かって、穏やかに笑った。
「さて、こちらのお客さんも、そろそろ自分の物語へ戻る時間だね」
ページに、最後の文章が現れる。
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結末 十六 あなたの物語
今、これを読んでいるあなたは、どんな気持ちですか?
喜? 怒? 哀? 楽?
きっと、そんな言葉だけでは表せない、複雑な感情もお持ちでしょう。
嬉しいだけでも、悲しいだけでもない。
何かを選び、迷い、ときには立ち止まりながら、ここまで歩いてきた。
それをお持ちのあなたは、まさに物語の主人公なのです。
町田凪の物語は、ここで終わります。
けれど、この本を閉じたあとも、あなたの物語は続いていきます。
この先、どちらへ進むのか。
次に何を選ぶのか。
それを決めるのは、あなたです。
それでは、良い物語を。




