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選択肢ーーあなたが選ぶ、十六の結末  作者: もちむぎ


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第二十九章 眠る前の、おはよう

第二十九章 眠る前の、おはよう


 凪の手は、白い「おやすみ」へ伸びかけた。


 今から帰って、シャワーを浴びて、何か食べて眠る。


 そのためのパンなら、どう考えてもこちらだ。


 けれど、隣の籠から漂ってきた香りに、指が止まった。


 オレンジの爽やかな甘さと、紅茶の落ち着いた香り。


 凪は橙色のパンを覗き込んだ。


「……味は、こっちの方が好きかも」


 結局、凪は「おはよう」を手に取った。


 おばあさんが、丸い眼鏡の奥から凪を見つめる。


「本当に、そっちでいいのかい?」


「え?」


「あんたの顔も身体も、“おやすみ”って言ってるように見えるけどね」


 凪は思わず自分の頬へ触れた。


 鏡を見なくても、どんな顔をしているかは想像できる。


 化粧は崩れ、目の下にはうっすらと隈がある。立っているだけでも、足の裏が重たい。


「大丈夫です。これを食べたら寝ますから」


「そうかい」


「オレンジと紅茶が好きなんです」


 凪が言うと、おばあさんは少しだけ笑った。


「なら、選ぶのはあんただからね」


 橙色のパンを紙袋へ入れ、口を丁寧に折り畳む。


 それを凪へ渡すとき、おばあさんはもう一度、その顔を心配そうに覗き込んだ。


「眠くなったら、ちゃんと眠るんだよ」


「はい」


「無理に一日を始めなくても、朝は逃げないからね」


 その言葉の意味を考えながら、凪は店を出た。


 けれど、紙袋から漂うオレンジと紅茶の香りを嗅いでいるうちに、家まで待つのが惜しくなった。


 少し先に、小さな公園がある。


 何度も前を通っているのに、中へ入ることはほとんどない。


 入り口の横に、自動販売機が立っていた。


 凪は温かい飲み物の並ぶ列を眺め、ココアのボタンを押した。


 ごとん、と缶が落ちる。


 取り出した缶は、両手で包みたくなるほど温かかった。


 凪は紙袋とココアを持って、公園へ入った。


 ベンチでは、年配の男性が新聞を読んでいた。


 犬を連れた女性がゆっくりと園内を歩き、砂場では幼い子どもが母親と山を作っている。


 どこにでもある朝だった。


 凪は空いているベンチへ座った。


 膝の上で紙袋を開く。


 橙色の表面には、細く刻まれたオレンジの皮が見えた。


 半分に割ると、紅茶の葉が練り込まれた生地から、朝のように明るい香りが立ち上る。


「いただきます」


 一口かじる。


 最初にオレンジの甘酸っぱさが広がり、そのあとから紅茶のほろ苦さが追いかけてきた。


「おいしい」


 ココアの蓋を開ける。


 甘くて温かいココアは、冷えた身体へゆっくり染み込んだ。


 オレンジと紅茶のパンには少し甘すぎる組み合わせかもしれない。それでも夜勤明けの凪には、その甘さがちょうどよかった。


 凪は肩の力を抜き、ゆっくりと「おはよう」を食べた。


 すべて食べ終えても、眠気が消えたわけではなかった。


 まぶたは重い。身体の奥には、夜通し働いた疲れが残っている。


 陽の光が、閉じそうになるまぶたへ当たる。


 それでも、今すぐ帰らなければという気持ちだけが、少し遠ざかっていた。


 遠くへ行くつもりはない。


 何か特別なことをするつもりもない。


 温かい缶を両手で包み、凪はベンチへ背中を預けた。


 仕事のことを考えなくていい。


 申し送りも、記録も、ナースコールもない。


 今ここにいる誰も、凪が看護師だとは知らない。


 ただ、朝の公園でぼんやりしている一人の人間だった。


 凪は大きなあくびをした。


「やっぱり、眠いな」


 自分で言って、少し笑った。


 公園にいたのは、三十分ほどだった。


 帰り道、花屋の前で足を止めた。


 店先のバケツに、黄色いガーベラが並んでいる。


 凪はその中から一本だけ選んだ。


「ご自宅用ですか?」


 店員に聞かれ、頷く。


「はい。一本だけ」


 大げさな花束はいらなかった。


 今日の朝を持って帰るには、それで十分だった。


 家へ戻ると、空になったジャムの瓶を洗い、ガーベラを挿した。


 黄色い花が、殺風景だった窓辺で朝の光を受けている。


 それから凪は浴室へ向かった。


 シャワーを浴び、髪を乾かし、部屋着に着替える。


 時計を見ると、午前十一時を少し過ぎていた。


 凪はもう一度、大きなあくびをする。


「今度こそ、おやすみなさい」


 カーテンを閉め、ベッドへ入った。


 眠りは、すぐに訪れた。


 次に目を覚ましたとき、窓の外は暗くなっていた。


 枕元のスマートフォンは、午後七時を示している。


 凪はゆっくりと身体を起こした。


 よく眠った。


 頭はすっきりして、身体の重さも消えている。


 カーテンを開ける。


 窓ガラスの向こうは夜だったが、その手前には、朝に買った黄色いガーベラが立っていた。


 今日は、仕事をして、帰って、眠った。


 それだけと言えば、それだけだ。


 けれど、その間に少しだけ公園へ行った。


 朝の光を浴びて、ぼんやりして、自分のために花を一本選んだ。


「ちゃんと、朝もあったな」


 凪はガーベラへ触れないよう、瓶の向きを少しだけ整えた。


 無理に一日を始めなくても、朝は逃げない。


 おばあさんの言葉を思い出す。


 凪に必要だったのは、一日を使い切ることではなかった。


 眠る前のほんの少しの時間を、自分のものにすることだった。


 窓辺の小さな朝を眺めながら、凪は気持ちよく伸びをした。


────────


結末 十四 眠る前の、おはよう

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