第二十八章 眠るための一日
第二十八章 眠るための一日
凪が選んだのは、白くて柔らかい「おやすみ」だった。
「こっちにします」
籠から一つ取り上げると、手のひらへ柔らかな重みが乗る。
「はいよ」
おばあさんはパンを紙袋へ入れ、口をくるくると折り畳んだ。
「帰ったら、温かいものと一緒にお食べ」
「そうします」
「それから、よくお眠り」
あまりにも優しく言われたので、凪は少し照れながら頷いた。
「おやすみなさい」
「おやすみ。いい夢を」
店を出ると、朝の光が眩しかった。
これから仕事へ向かう人たちの間を、凪は紙袋を抱えて歩く。
中から漂うミルクとはちみつの香りに、何度も袋を開けたくなった。それでもどうにか我慢して、自宅まで持ち帰った。
玄関の扉を閉めた途端、身体から力が抜けた。
「つかれた……」
バッグを床へ置き、その場に座り込みそうになる。
けれど、ここで座ったら最後だ。化粧も落とさず、制服の匂いをまとったまま、玄関で眠ってしまう自信がある。
凪は自分を引きずるように浴室へ向かった。
熱すぎないシャワーを浴び、髪を乾かし、部屋着に着替える。
それだけで一仕事を終えたような気分になった。
台所で湯を沸かし、カップへ粉末のコーンスープを入れる。
白い湯気が立つスープと、買ってきたパンをテーブルへ並べた。
時計は午前十時を少し過ぎている。
「いただきます」
おやすみを二つに割る。
中まで真っ白なパンは、驚くほど柔らかかった。口へ入れると、ミルクの香りと、はちみつの穏やかな甘さが広がる。
温かいコーンスープを飲む。
ほっと息が漏れた。
夜勤中に張りつめていたものが、ようやく身体から抜けていく。
パンを食べ終える頃には、まぶたを開けているのも難しくなっていた。
凪はカップだけを流しへ運んだ。
洗うのは起きてからでいい。
歯を磨き、カーテンを閉め、ベッドへ倒れ込む。
布団を肩まで引き上げたところまでは覚えている。
次の瞬間、凪は夢の中にいた。
真っ白な雲の上に、一組の布団が敷かれている。
空は青く、風はなく、遠くから誰かが呼ぶ声もしない。
ナースコールも鳴らない。
時計もない。
凪は布団のそばへ立ち、しばらく考えた。
「夢の中まで来て、寝るの?」
誰も答えない。
試しに布団へ触れると、ふかふかだった。
「……まあ、いっか」
凪は雲の上の布団へ潜り込んだ。
そして、夢の中でも眠った。
次に目を開けると、今度は陽の当たる広い部屋にいた。
床一面に、大小さまざまなクッションが敷き詰められている。
凪はそのうち一番大きなものへ身体を預けた。
「また寝る場所……」
呟きながら、目を閉じる。
もう何度目なのか分からない眠りへ、凪は再び落ちていった。
夢の中で目を覚ましては、また眠る。
何かをする夢は、一つも見なかった。
誰かを助けることも、何かに追われることもない。
ただ、眠った。
とにかく、眠った。
凪が本当に目を覚ましたとき、部屋は真っ暗だった。
「……え?」
枕元のスマートフォンを手に取る。
画面に表示された時刻は、午後七時を過ぎていた。
凪は跳ね起き、慌ててカーテンを開けた。
外は、見事に夜だった。
「一日、終わってる……」
夜勤明けは、休日ではない。
つい数時間前まで働いていたのだ。本当なら、朝からの時間は夜通し働いた身体を休ませ、生活のリズムを戻すためにある。
まず眠る。それが一番しなければならないことだ。
凪にも、それは分かっている。
それでも朝に仕事が終わると、目の前に明るい一日が丸ごと残っているように見える。
買い物へ行けた。掃除もできた。映画を一本見られたかもしれない。
何か特別な予定があったわけでもないのに、昼の時間を全部眠って使ってしまうと、自由な一日を失くしたような気がしてしまう。
夜に眠る人なら、何とも思わないはずの睡眠なのに。
凪は暗い窓の前で、しばらく立ち尽くした。
けれど、不思議なほど身体は軽かった。
重たかった頭もすっきりしている。
肩を回しても痛くない。何日も身体の奥へ溜まっていた疲れが、きれいになくなっていた。
大きく伸びをすると、腹が鳴った。
「よく寝た……」
それは間違いない。
凪はテーブルに残された、「おやすみ」と書かれた紙袋を見る。
損などしていない。
朝まで働いた身体へ、必要な時間を返しただけだ。
あれほど眠かった自分は、もうどこにもいなかった。
それでも凪は、ちょっぴり一日を逃したような気分のまま、気持ちよくもう一度伸びをした。
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結末 十三 眠るための一日




