第二十六章 店主を選ぶ店
第二十六章 店主を選ぶ店
凪は、玲奈の心の声が聞こえたことを隠すことにした。
『これで、次の店主が見つかった』
その意味は気になる。
けれど、今ここで問いかければ、自分が心を読めるようになったと玲奈へ知らせることになる。
もう少し様子を見た方がいい。
凪はそう考え、カップへ口をつけた。
「どう?」
玲奈が尋ねる。
「さっきより、頭がすっきりしてきました」
「そう。よかった」
『全部飲んで』
玲奈の唇は動いていない。
『残さず、全部』
凪はカップの中を見つめた。
独特な香りのする、不思議な色の薬草茶。
看護師としては、成分も分からないものをこれ以上飲むべきではないと思う。
それでも、自分の身に何が起きているのか知りたかった。
凪は心の声が聞こえていることを悟られないよう、少しずつ薬草茶を飲んだ。
最後の一口を飲み込み、空になったカップをテーブルへ置く。
ことり、と小さな音がした。
その瞬間、店内に漂っていた香りが一気に濃くなった。
ラベンダー。
ローズマリー。
ユーカリ。
嗅いだことのない香りまで、一つずつ名前が浮かんでくる。
凪は棚に並ぶ小瓶を見た。
どれが何の精油なのか分かる。
効能も、組み合わせ方も、肌へ使うときの濃度も。
習った覚えなどないのに、ずっと前から知っていたように頭の中へ入っていた。
「何、これ……」
玲奈は答えず、立ち上がった。
壁の時計を外す。
その裏から、小さな鍵を一本取り出した。
「はい」
玲奈は鍵を凪の前へ置いた。
「何の鍵ですか?」
「この店」
「どうして私に?」
「十一時から予約が入ってるの。お願いね」
玲奈は壁に掛けていた上着を手に取った。
「待ってください。私、マッサージなんてできません」
「できるわ」
「できませんよ。私は看護師です」
「私も、ここへ来る前は別の仕事をしていた」
玲奈は鏡の前で髪を整えた。
その横顔は、初めて会ったときよりもずっと穏やかに見えた。
『やっと帰れる』
心の声が聞こえた。
『長かった』
凪は椅子から立ち上がった。
「帰るって、どこへ?」
玲奈の手が止まる。
ゆっくりと凪を振り返った。
「今、私、口に出してないわよね」
しまった。
凪は答えられなかった。
だが玲奈は怒らなかった。
嬉しそうに笑った。
「ちゃんと聞こえてるのね」
「何を飲ませたんですか」
「店主になるためのお茶」
「そんなもの、私は頼んでません」
「でも、全部飲んだ」
玲奈は扉を開けた。
「あとはお願いね」
「待って!」
凪は玲奈を追いかけた。
扉から外へ踏み出したはずだった。
けれど次に足をついたのは、店の中の床だった。
目の前には、小さなテーブルと二つのカップがある。
振り返ると、玲奈は階段を下りていた。
「玲奈さん!」
もう一度扉をくぐる。
やはり、店の中へ戻ってしまう。
何度試しても同じだった。
外へ出ようとするたび、凪は店の入り口へ立っている。
玲奈の足音は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「嘘でしょう……」
壁の時計が、十一時を告げた。
階段を上る足音がする。
扉が開き、一人の女性が入ってきた。
「予約していた者ですけど」
凪は何も答えられなかった。
『玲奈さんじゃない。誰、この人』
女性の口は閉じたままだった。
『帰ろうかな。でも昨日から肩が痛くて、頭痛もひどいし』
凪は無意識に女性の姿勢を見た。
右肩が少し上がっている。首を動かすとき、左側をかばっている。
病院で患者を見るときと同じように、気になるところが次々と目へ入った。
同時に、使うべき香りと手順が頭へ浮かぶ。
「……こちらへどうぞ」
凪はマッサージ台を示した。
女性は戸惑いながらも、靴を脱いだ。
凪の手は、初めてとは思えないほど自然に動いた。
心の声を聞けば、痛む場所も、力の強さも分かる。
施術を終えた女性は、驚いた顔で首を回した。
「楽になりました。またお願いしてもいいですか?」
凪は笑うしかなかった。
「はい」
その日から、凪は店主になった。
客が口にしない痛みが聞こえた。
眠れない理由も、誰にも話せない悩みも分かった。
凪は一人ずつに合う香りを選び、必要な言葉をかけた。
店の評判は少しずつ広がった。
けれど、凪は店から出られなかった。
扉をくぐれば、必ず店の中へ戻される。
窓の外では季節が変わった。
暑い夏が過ぎ、落ち葉が舞い、雪が積もり、また花が咲いた。
病院のことも、自分の部屋のことも、遠い記憶になっていった。
どれほど時間が過ぎたのか、やがて数えることもやめた。
ある朝、店の前で誰かが立ち止まった。
化粧の薄い、疲れた顔の女性だった。
女性は扉に手を掛けようとして、迷っている。
『眠い』
声が聞こえた。
『でも、家に帰ってもやることがいっぱいある』
凪は立ち上がった。
扉へ手を掛ける。
その日、初めて扉は凪を外へ通した。
「大丈夫ですか?」
女性が顔を上げる。
「顔色がよくないですよ。少し、休んでいきませんか?」
凪は店へ招き、温かい薬草茶を差し出した。
「これは?」
「血液の流れをよくするお茶です」
女性は警戒しながらも、カップへ口をつけた。
一口、薬草茶を飲む。
凪は微笑んだ。
『よかった』
『これで、次の店主が見つかった』
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結末 十一 店主を選ぶ店




