第二十四章 もう一つの名札
第二十四章 もう一つの名札
「私も、自分の好きなものを仕事にしてみたいです」
凪はそう口にした。
言ってから、少し恥ずかしくなった。
玲奈の店へついてきて、薬草茶を一杯飲んだだけで何を言っているのだろう。
けれど玲奈は笑わなかった。
「いいじゃない」
「でも、仕事にしたいほど好きなものが何なのか、まだ分からなくて」
「じゃあ、凪さんは休みの日に何をしてるの?」
「寝てます」
「それは今日を見れば分かる」
凪は苦笑した。
「寝る以外で。気づいたら時間が経ってることとか、誰にも頼まれてないのにやってしまうこと」
そう聞かれて、凪の頭に一つだけ浮かんだ。
「……書くこと、かな」
「書く?」
「物語です」
口に出した途端、顔が熱くなった。
病院では誰にも話していない。
町田凪には、看護師とは別の顔があった。
夜勤のない日の夜や、休日の午後。古いノートパソコンを開き、頭の中に浮かんだ物語を書く。
幽霊が住む古い団地。
人間の言葉を話す猫。
閉店後、本の中から登場人物が訪ねてくる書店。
現実には起こらないことを、起こったように書くのが好きだった。
完成した話は、匿名で小説投稿サイトへ載せている。
読んでくれる人は多くない。
それでも、ときどき感想が届く。
続きが楽しみです。
この登場人物が好きです。
その短い言葉を見つけるたび、次の物語を書こうと思えた。
「投稿もしてるの?」
「一応。でも、全然大したものじゃないです」
「読ませて」
「今ですか?」
「今」
玲奈は当然のように手を差し出した。
凪はしばらく迷ったあと、スマートフォンで自分の投稿ページを開いた。
「短いやつだけですよ」
「はいはい」
玲奈はスマートフォンを受け取ると、本当にその場で読み始めた。
自分の文章を、目の前で読まれる。
これほど落ち着かないことがあるだろうか。
凪は残っていた薬草茶を一気に飲んだ。
「あ、不味い」
「今さらでしょう」
画面を見たまま玲奈が答える。
数分後、玲奈はスマートフォンを凪へ返した。
「面白いじゃない」
「本当に?」
「ここ、好き」
玲奈が指したのは、凪自身も気に入っている一文だった。
嬉しさが顔に出ないようにしようとして、たぶん失敗した。
「ねえ、仕事にしてみる?」
「え?」
玲奈は店の棚を指した。
そこには何種類もの精油が並んでいる。
「この店で使っている香りに、短い物語をつけたいと思ってたの。お客さんが読むカードにして、瓶の横へ置きたい」
「私が書くんですか?」
「嫌?」
「嫌じゃないです。でも、私、素人ですよ」
「私が頼んで、凪さんが書いて、私がお金を払う。それなら仕事でしょう」
あまりにも簡単に言うので、凪はまた言葉を失った。
「まず五種類。短いものでいいわ。稿料は五千円でどう?」
「そんなにもらえません」
「そういうの駄目」
玲奈はきっぱり言った。
「自分の好きなものを仕事にしたいんでしょう。最初から無料でやったら、自分の文章はお金をもらうほどのものじゃないって、自分で決めることになるわよ」
凪は黙った。
五千円。
看護師として働けば、もっと多くのお金を受け取る。
けれど、物語を書いてお金をもらう自分は、まだ想像できなかった。
「……やってみたいです」
「決まりね」
玲奈は名刺の裏に、五つの香りの名前を書いた。
ラベンダー。
オレンジ。
ユーカリ。
ローズマリー。
ゼラニウム。
凪はそれを、大事な指示書のように受け取った。
それから二週間、凪の生活は大きく変わらなかった。
病院へ行き、働き、帰って眠る。
疲れて一文字も書けない日もあった。
それでも休みの日には机へ向かい、香りを一つずつ物語にした。
ラベンダーは、眠れない月を寝かしつける花。
オレンジは、太陽の欠片をポケットに隠す少年。
何度も書き直し、五つの短い物語を玲奈へ送った。
さらに一週間後、凪はもう一度店を訪れた。
精油の小瓶の横に、きれいに印刷されたカードが並んでいる。
一人の客がラベンダーのカードを読み、その瓶を手に取った。
「これ、ください」
客がレジへ向かう。
凪は何も言わず、その背中を見送った。
「今の人、凪さんの話を読んで選んだわね」
玲奈が小声で言う。
「たまたまかもしれません」
「素直に喜びなさいよ」
凪は笑った。
その日の夕方、スマートフォンに入金の通知が届いた。
五千円。
看護師として受け取る給料とは、桁がいくつも違う。
生活が変わる金額でもない。
明日になれば、凪はまた病院へ行く。
それでも凪は、画面に表示された数字を何度も見直した。
自分の好きなものが、初めて仕事になったお金だった。
投稿サイトのプロフィールを開く。
これまで空欄だった自己紹介欄に、一行だけ書き加えた。
看護師をしながら、物語を書いています。
保存する指が、少しだけ震えた。
町田凪は看護師だ。
そして今日から、名前のまだ知られていない小説家でもある。
凪は新しい物語を書くため、古いノートパソコンを開いた。
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結末 九 もう一つの名札




