第二十三章 生きる方へ
第二十三章 生きる方へ
凪は黒いコートの男から目を逸らした。
まだ自分も乗客だと思っているのか。
ここに乗ってきたのは、本当に自分なのか。
言葉の意味は分からない。
けれど、分からないからこそ恐ろしかった。
煙に隠された乗客たちは、一人ずつ消えていった。
次は自分だ。
このまま男と向き合っていたら、自分もあの煙に消される。
凪はそう思った。
背後では、車両の扉がわずかに開いている。
隙間の向こうには、何も見えない。ホームも線路もない。ただ、底のない暗闇が広がっていた。
ここから出れば助かる保証などない。
それでも、男のそばに残るよりはいい。
凪は扉へ駆け寄り、両手を隙間へ差し込んだ。
「開いて!」
重い扉を力任せにこじ開ける。
冷たい風が車内へ吹き込んできた。
「そちらへ行くのですか」
男の声が背中に届く。
凪は振り返らなかった。
「ここにいたら、私も消される」
「そう思いますか」
「違うの?」
問い返してしまってから、凪は唇を噛んだ。
男は答えない。
白い煙だけが、ゆっくりこちらへ迫ってくる。
凪は開いた隙間へ体を滑り込ませた。
足元に何もない。
一瞬、体が宙へ投げ出された。
落ちる。
そう思って目を閉じたが、すぐに靴底が硬い地面へ触れた。
凪はよろめき、両手をついた。
顔を上げる。
どこまでも暗い場所だった。
空も地面も境目がない。自分の手足さえ、気を抜けば闇へ溶けてしまいそうだった。
背後で扉が閉まる音がした。
振り返る。
煙を詰め込んだ電車が、闇の中に浮かんでいる。
窓辺に黒いコートの男が立っていた。
男は凪を追ってこない。
ただ、静かに見送っている。
電車が動き出す。
凪から遠ざかりながら、闇の中へ沈んでいく。
最後の窓が見えなくなる寸前、男の口が動いた。
あなたは、まだこちらの乗客ではない。
そう言ったように見えた。
電車は消えた。
あとには、完全な静寂だけが残った。
「どこへ行けばいいの……」
凪の声は、どこにも反響しない。
右も左も分からない。
それでも、ここに立ち止まってはいけない気がした。
凪は暗闇の中を歩き始めた。
一歩。
もう一歩。
どれだけ進んでも景色は変わらない。
自分が本当に前へ進んでいるのかさえ分からなくなったころ、遠くに何かが見えた。
針の先ほどの、小さな光だった。
凪は目を凝らした。
見間違いではない。
闇の中に、確かに一粒の光が浮かんでいる。
あそこへ行こう。
理由はなかった。
けれど、ほかに目指せるものもなかった。
凪は光へ向かって歩いた。
光は少しずつ大きくなっていく。
歩くうちに、遠くから音が聞こえ始めた。
低く唸る機械の音。
規則正しく繰り返される電子音。
誰かが自分の名前を呼んでいる。
「凪」
声は小さく、まだ誰のものか分からない。
「凪、お願い」
今度は聞き覚えがあった。
凪は歩く速度を上げた。
光は人が通れるほどの大きさになっている。
その先に、白いものが見えた。
壁だろうか。
天井だろうか。
もう少しで届く。
凪が光へ手を伸ばした瞬間、体が一気に重くなった。
「っ……」
肩に、腕に、脚に、何かがまとわりつく。
鉛を流し込まれたようだった。
胸が痛い。
息が苦しい。
足を持ち上げようとしても動かない。
さっきまで自由に歩けていた体が、自分のものではないように重かった。
凪は初めて理解した。
これは、戻ろうとしているのだ。
傷ついて、動かなくなった、自分の体へ。
光の向こうから、声がする。
「戻ってきて」
「凪」
「お願いだから、目を開けて」
凪は動かない脚へ力を込めた。
生きたい。
強く、そう思った。
今日の夜勤は終わった。
家に帰って眠るはずだった。
冷蔵庫には卵がある。
洗濯物だって、そのままだ。
何でもない一日の続きを、まだ終わらせたくなかった。
凪は歯を食いしばり、最後の一歩を踏み出した。
光が視界いっぱいに広がる。
眩しさに耐えきれず、目を固く閉じた。
次に目を開けたとき、見えたのは真っ白な天井だった。
規則正しい電子音が聞こえる。
口元には酸素マスクがあり、腕には点滴が繋がっている。
目だけを動かすと、自分を覗き込む二人の顔が見えた。
「凪?」
母だった。
隣にいる父は、何かを言おうとして、顔を歪めた。
母が凪の手を握る。
「分かる? お母さんだよ」
凪はわずかに指を動かした。
それだけで、母の目から涙が溢れた。
「よかった……」
父が何度も頷く。
「本当に、よく戻ってきた」
凪は声を出そうとしたが、喉がうまく動かなかった。
駆けつけた医師と看護師の声が重なる。
意識が戻ったこと。
ここが病院であること。
凪が乗っていた電車が脱線事故を起こしたこと。
救出されてから、何日も意識が戻らなかったこと。
説明は途切れ途切れにしか頭へ入らなかった。
ただ、助かったのだということだけは分かった。
後になって、事故では多くの命が失われたと聞いた。
煙の中から一人ずつ消えていった人々の顔を、凪は思い出した。
あの列車で、自分を見ていた黒いコートの男も。
彼は凪を追ってこなかった。
まだこちらの乗客ではない。
最後にそう言ったのだと、今なら分かる。
凪は動かしにくい指で、母の手を握り返した。
その温かさを確かめながら、もう一度、白い天井を見上げる。
何でもない一日の続きへ戻るには、長い時間がかかるだろう。
それでも、戻る場所は残っている。
凪はあの暗闇で、自分の足で生きる方を選んだのだ。
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結末 八 生きる方へ




