第二十二章 降りる駅
第二十二章 降りる駅
「どういう意味ですか」
凪は黒いコートの男を問い詰めた。
「乗客じゃないって、ここに乗っているじゃないですか。あなたも、私も」
男は煙の中に立ったまま、凪を見ていた。
「私は乗客ではありません」
「だったら、何なんですか」
「影です」
男は静かに答えた。
「あなたを起こそうとしている人の影」
凪は眉を寄せた。
煙が二人の間をゆっくり流れていく。
「意味が分かりません」
「では、あなたはここへ来てから、一度でも自分のために動きましたか」
問い返され、凪は口を閉じた。
煙が出た。
姿勢を低くするように叫んだ。転びかけた男性を支え、乗客の人数を数えた。残された人がいないか、座席の下まで確かめた。
自分も逃げなければならないと分かっていた。
それでも先に考えたのは、ほかの乗客のことだった。
「だって、私は看護師です」
「今も?」
「え?」
「あなたの勤務は、もう終わっています」
男の声が車内に響いた。
その言葉と同時に、煙が左右へ分かれていく。
白く覆われていた車両の奥が、少しずつ見えてきた。
座席に、一人の女性がいる。
窓にもたれ、目を閉じて眠っていた。
肩からバッグがずり落ちかけている。疲れ切った顔。少し乱れた髪。
凪は息をのんだ。
「……私」
眠っているのは、自分だった。
凪は自分の両手を見る。
確かにある。動かせる。床に立っている感覚もある。
それなのに、もう一人の自分が座席で眠っている。
「乗客なのは、あちらの町田凪です」
黒いコートの男が言った。
「では、私は何なの」
「あの人が病院に置いてこられなかったものです」
「置いてこられなかったもの?」
「看護師としての、あなたです」
凪は眠っている自分を見つめた。
「身体はとっくに限界でした。電車へ乗った途端に眠ってしまうほどに。それでもあなたは患者のことを考え、申し送りに忘れたことがないか、仕事を残していないか確かめ続けた」
朝、病院を出てから考えていたことが、次々と浮かぶ。
昨夜の患者。
朝食の量。
明け方に眠れたこと。
申し送り。
記録。
ロッカーの鍵。
全部終わったはずなのに、頭の中では何度も勤務をやり直していた。
「煙の中でも同じでした。ほかの人を逃がそうとし、人数を数え、最後まで残った」
「それが仕事だから」
「ここは病院ではありません」
男の言葉は責めるような調子ではなかった。
だからこそ、凪の胸へまっすぐ入ってきた。
「ほかの人たちは、どこへ消えたんですか」
「駅に着き、目を覚まして降りていきました。あなたが見ていたのは、眠っていた乗客たちの影です」
「じゃあ、みんな無事なんですね」
凪が安堵すると、男はわずかに笑った。
「やはり、最初に確かめるのはそれですか」
凪は言葉に詰まった。
「あなたは?」
「間もなく終点です。現実の車掌が、眠ったままのあなたを起こそうとしている。私はその声より先に、ここへ伸びてきた影です」
黒いコートの裾が煙のように揺れる。
「戻りなさい」
「どうやって」
「あの人に触れればいい」
凪は眠っている自分へ近づいた。
目の下には薄い隈がある。
自分の顔なのに、ひどく疲れた他人の顔を見るようだった。
「私が戻ったら、この人はまた働くんでしょう」
「それを決めるのは、私ではありません」
「職場では、期待されてるんです。まだ若いから動けるって。私がやった方が早いことも多いし」
「それで、あなたは何と答えたのですか」
凪は思い出す。
大丈夫です。
できます。
やっておきます。
頼まれるたび、ほとんど反射のように口にしていた。
「期待されることと、壊れるまで応えることは同じですか」
男の問いに、凪はすぐ答えられなかった。
眠っている自分の肩へ手を伸ばす。
「あなたの勤務は、もう終わりました」
男がもう一度言った。
凪の指先が、自分の肩へ触れる。
車内が真っ白になった。
「お客さま」
誰かの声がする。
「お客さま、終点ですよ」
凪は目を開けた。
目の前に、制服姿の車掌が立っている。
黒いコートではない。
けれど、その顔は夢の中の男と同じだった。
「……影」
「はい?」
「いえ、何でもありません」
凪は慌ててバッグを持ち、頭を下げた。
「すみません。ありがとうございました」
「お疲れのようですから、お気をつけて」
車掌はそう言って、次の車両へ歩いていった。
凪は電車を降りた。
降りたことのない終着駅だった。
引き返す電車が来るまで、少し時間がある。
向かいのホームへ渡り、ベンチに座った。
屋根の向こうに、海が見えた。
朝の光を反射し、青い水面が静かに揺れている。
「海、見えたな」
思っていた見方とは、ずいぶん違ったけれど。
凪は肩の力を抜いた。
看護師を辞めたいわけではない。
患者に声をかけ、少しでも安心した顔を見れば、この仕事を選んでよかったと思う。
ただ、期待されているから。
まだ若いから。
自分が動いた方が早いから。
そんな理由で、身体の声を聞こえないふりをする働き方は、もう続けなくてもいいのかもしれない。
「帰ったら、求人見てみようかな」
夜勤のない職場。
もう少し、肩の力を抜いて働ける場所。
すぐに辞めると決めたわけではない。いい場所が見つかるとも限らない。
それでも、探してみることはできる。
ホームへ引き返す電車が入ってくる。
凪は立ち上がり、最後にもう一度海を見た。
それは逃げることではない。
自分で降りる駅を決めることなのだと、今なら思えた。
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結末 七 降りる駅




