↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択肢ーーあなたが選ぶ、十六の結末  作者: もちむぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/31

第二十二章 降りる駅

第二十二章 降りる駅


「どういう意味ですか」


 凪は黒いコートの男を問い詰めた。


「乗客じゃないって、ここに乗っているじゃないですか。あなたも、私も」


 男は煙の中に立ったまま、凪を見ていた。


「私は乗客ではありません」


「だったら、何なんですか」


「影です」


 男は静かに答えた。


「あなたを起こそうとしている人の影」


 凪は眉を寄せた。


 煙が二人の間をゆっくり流れていく。


「意味が分かりません」


「では、あなたはここへ来てから、一度でも自分のために動きましたか」


 問い返され、凪は口を閉じた。


 煙が出た。


 姿勢を低くするように叫んだ。転びかけた男性を支え、乗客の人数を数えた。残された人がいないか、座席の下まで確かめた。


 自分も逃げなければならないと分かっていた。


 それでも先に考えたのは、ほかの乗客のことだった。


「だって、私は看護師です」


「今も?」


「え?」


「あなたの勤務は、もう終わっています」


 男の声が車内に響いた。


 その言葉と同時に、煙が左右へ分かれていく。


 白く覆われていた車両の奥が、少しずつ見えてきた。


 座席に、一人の女性がいる。


 窓にもたれ、目を閉じて眠っていた。


 肩からバッグがずり落ちかけている。疲れ切った顔。少し乱れた髪。


 凪は息をのんだ。


「……私」


 眠っているのは、自分だった。


 凪は自分の両手を見る。


 確かにある。動かせる。床に立っている感覚もある。


 それなのに、もう一人の自分が座席で眠っている。


「乗客なのは、あちらの町田凪です」


 黒いコートの男が言った。


「では、私は何なの」


「あの人が病院に置いてこられなかったものです」


「置いてこられなかったもの?」


「看護師としての、あなたです」


 凪は眠っている自分を見つめた。


「身体はとっくに限界でした。電車へ乗った途端に眠ってしまうほどに。それでもあなたは患者のことを考え、申し送りに忘れたことがないか、仕事を残していないか確かめ続けた」


 朝、病院を出てから考えていたことが、次々と浮かぶ。


 昨夜の患者。


 朝食の量。


 明け方に眠れたこと。


 申し送り。


 記録。


 ロッカーの鍵。


 全部終わったはずなのに、頭の中では何度も勤務をやり直していた。


「煙の中でも同じでした。ほかの人を逃がそうとし、人数を数え、最後まで残った」


「それが仕事だから」


「ここは病院ではありません」


 男の言葉は責めるような調子ではなかった。


 だからこそ、凪の胸へまっすぐ入ってきた。


「ほかの人たちは、どこへ消えたんですか」


「駅に着き、目を覚まして降りていきました。あなたが見ていたのは、眠っていた乗客たちの影です」


「じゃあ、みんな無事なんですね」


 凪が安堵すると、男はわずかに笑った。


「やはり、最初に確かめるのはそれですか」


 凪は言葉に詰まった。


「あなたは?」


「間もなく終点です。現実の車掌が、眠ったままのあなたを起こそうとしている。私はその声より先に、ここへ伸びてきた影です」


 黒いコートの裾が煙のように揺れる。


「戻りなさい」


「どうやって」


「あの人に触れればいい」


 凪は眠っている自分へ近づいた。


 目の下には薄い隈がある。


 自分の顔なのに、ひどく疲れた他人の顔を見るようだった。


「私が戻ったら、この人はまた働くんでしょう」


「それを決めるのは、私ではありません」


「職場では、期待されてるんです。まだ若いから動けるって。私がやった方が早いことも多いし」


「それで、あなたは何と答えたのですか」


 凪は思い出す。


 大丈夫です。


 できます。


 やっておきます。


 頼まれるたび、ほとんど反射のように口にしていた。


「期待されることと、壊れるまで応えることは同じですか」


 男の問いに、凪はすぐ答えられなかった。


 眠っている自分の肩へ手を伸ばす。


「あなたの勤務は、もう終わりました」


 男がもう一度言った。


 凪の指先が、自分の肩へ触れる。


 車内が真っ白になった。


「お客さま」


 誰かの声がする。


「お客さま、終点ですよ」


 凪は目を開けた。


 目の前に、制服姿の車掌が立っている。


 黒いコートではない。


 けれど、その顔は夢の中の男と同じだった。


「……影」


「はい?」


「いえ、何でもありません」


 凪は慌ててバッグを持ち、頭を下げた。


「すみません。ありがとうございました」


「お疲れのようですから、お気をつけて」


 車掌はそう言って、次の車両へ歩いていった。


 凪は電車を降りた。


 降りたことのない終着駅だった。


 引き返す電車が来るまで、少し時間がある。


 向かいのホームへ渡り、ベンチに座った。


 屋根の向こうに、海が見えた。


 朝の光を反射し、青い水面が静かに揺れている。


「海、見えたな」


 思っていた見方とは、ずいぶん違ったけれど。


 凪は肩の力を抜いた。


 看護師を辞めたいわけではない。


 患者に声をかけ、少しでも安心した顔を見れば、この仕事を選んでよかったと思う。


 ただ、期待されているから。


 まだ若いから。


 自分が動いた方が早いから。


 そんな理由で、身体の声を聞こえないふりをする働き方は、もう続けなくてもいいのかもしれない。


「帰ったら、求人見てみようかな」


 夜勤のない職場。


 もう少し、肩の力を抜いて働ける場所。


 すぐに辞めると決めたわけではない。いい場所が見つかるとも限らない。


 それでも、探してみることはできる。


 ホームへ引き返す電車が入ってくる。


 凪は立ち上がり、最後にもう一度海を見た。


 それは逃げることではない。


 自分で降りる駅を決めることなのだと、今なら思えた。


────────


結末 七 降りる駅

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。