第二十一章 夜勤明けの海
第二十一章 夜勤明けの海
凪は、開いた扉から砂浜へ下りることにした。
前方の車両からは、まだ誰かの声が聞こえている。
けれど、床の向きさえ違う場所へ、このまま一人で進んでいいのか分からない。外へ出て助けを呼べるなら、その方がいい。
そう自分に言い聞かせ、凪は砂の上へ足を下ろした。
柔らかな砂が、靴底を受け止める。
振り返った瞬間、電車の扉が閉まった。
「待って!」
凪は慌てて車体へ手を伸ばした。
電車は音もなく動き出す。
線路などない砂浜を滑るように遠ざかり、海から吹いた風に溶けるように消えた。
あとには、二本のレールどころか、車輪の跡さえ残らなかった。
「うそ……」
凪はしばらく立ち尽くした。
前の車両に残してきた声が耳から離れない。
助けを呼ぶために下りたはずなのに、これでは逃げただけではないか。
波の音だけが、静かに繰り返している。
見渡すかぎり白い砂浜が続いていた。人の姿も、町へ通じる道も見えない。
ただ少し離れたところに、古びた海の家が一軒だけ建っている。
色あせた暖簾には、青い文字で「ひとやすみ」と書かれていた。
凪は砂に足を取られながら、海の家へ向かった。
「すみません」
暖簾をくぐると、奥の椅子に座っていた白髪の女性が顔を上げた。
「いらっしゃい」
「ここ、どこですか。それと、今、電車が――」
女性は凪の顔をじっと見ると、質問には答えずに言った。
「あんた、夜勤明けやろ」
「え?」
「ひどい顔しとる。先に寝なさい」
「いや、寝ている場合じゃないんです。電車の中に人が残ってて、助けを呼んでいて」
「ああ。あっちへ行った方のあんたが、助けに行っとるよ」
凪は眉を寄せた。
「あっちへ行った方の、私?」
「こっちを選ばなかったあんたも、おるということや」
「何を言ってるんですか」
「分からんでええ。選ばなかった方のことまで心配しとったら、人はいつまでも休めんからな」
女性は立ち上がり、店の奥へ引っ込んだ。
しばらくして、盆に味噌汁と塩むすびを載せて戻ってくる。
「食べ」
「お金、今あまり持ってないです」
「ここでは要らん」
「でも」
「よく働いた人から金まで取ったら、罰が当たるわ」
湯気の立つ味噌汁を前にした途端、凪の腹が鳴った。
女性が笑う。
「体の方が正直やな」
凪は観念して椅子に座った。
塩むすびは、米と塩だけの味だった。味噌汁の具も豆腐と葱しか入っていない。
それなのに、驚くほどおいしかった。
口へ運ぶたびに、夜勤中から体の中へ残っていた緊張が少しずつほどけていく。
「ごちそうさまでした」
「よし。じゃあ、寝なさい」
女性が指した先には、小上がりの畳があった。
窓から入る風で白いカーテンが揺れている。その奥に、薄い布団が一組敷かれていた。
「でも、帰らないと」
「帰りの電車は夕方や。それまでは来ん」
「夕方まで?」
凪はバッグからスマートフォンを出した。家に着いたら洗濯をしようと思っていた。冷蔵庫の中も確かめなければならない。
けれど、画面には圏外の文字しか出ていない。
「今日ぐらい、先に寝ても誰も怒らんよ」
女性の声は、波音に混じるほど穏やかだった。
凪は布団へ横になった。
薄いはずなのに、体が沈み込むように柔らかい。
目を閉じると、遠くで波が寄せては返す音がする。
申し送りはした。
記録も終えた。
ロッカーも閉めた。
今日はもう、何もしなくていい。
凪は息を吐いた。
次に目を開けたとき、部屋は夕焼け色に染まっていた。
体を起こす。
頭が軽い。肩の重さも、目の奥に張りついていた痛みも消えている。
「起きたか」
女性が海の方を指した。
「迎えが来たよ」
夕日に照らされた海の上を、一両だけの電車が走ってくる。
水しぶきも上げず、波の上へ真っすぐ伸びた光の道を進んでいた。
電車は砂浜の手前で止まり、扉を開いた。
「あの、ありがとうございました」
凪が頭を下げると、女性は小さな貝殻を一つ差し出した。
「切符や」
「また来られますか」
「来ん方がええ。次は、ここまで疲れる前に休み」
凪は苦笑して、貝殻を受け取った。
「気をつけます」
電車へ乗り込む。
扉が閉まる直前、女性が言った。
「あんたが助けられんかった人のことは、あんたが助けとる。安心して帰り」
意味は、やはり分からなかった。
けれど今度は、その言葉を信じてみようと思った。
電車が動き出す。
凪が窓の外へ手を振ると、女性も暖簾の前で手を振り返した。
次の瞬間、眩しい光が車内を包んだ。
目を開けると、凪は見慣れた駅のホームに立っていた。
朝の日差し。出勤する人々。到着を知らせる放送。
スマートフォンを確かめる。
乗り過ごしたと気づいてから、十分ほどしか経っていなかった。
夢だったのだろうか。
凪はポケットへ手を入れた。
指先に、小さな貝殻が触れる。
耳へ当てると、かすかに波の音がした。
「帰って、寝よ」
今度は迷わず、凪は自宅へ向かう電車に乗った。
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結末 六 夜勤明けの海




