第二十章 帰る場所
第二十章 帰る場所
凪は、助けを求める声の方へ進むことにした。
開いた扉の向こうでは、白い砂浜に穏やかな波が寄せている。
一歩下りてしまえば、もう何も考えずに横になれる気がした。
けれど、前方の車両には誰かがいる。
凪は扉から目を逸らし、向きの変わった連結部分に手を掛けた。
「今、行きます!」
返事はない。
凪は慎重に足を伸ばした。向こうの車両の壁だった場所へ靴底をつける。体を移した途端、重力の向きがぐるりと変わった。
「うわっ」
床へ落ちるはずだった体が、窓のある方へ引っ張られる。
凪はとっさに座席の脚をつかんだ。
この車両では、壁が床だった。
頭上には、本来なら通路である場所が縦に伸びている。座席の背や吊り革を足場にしなければ、先へは進めない。
窓の向こうでは、海が空へ向かって流れていた。
青い水の中を魚が泳ぎ、凪の横を通り過ぎていく。
そのとき、声がした。
「こっち……」
凪は顔を上げた。
車両の奥に、人影がある。
座席と座席の隙間に片脚を挟まれた若い男が、こちらを見下ろしていた。
耳には、大きなヘッドホン。
「……朝の!」
駅でぶつかった男だった。
男は片方の耳からヘッドホンを外した。
「やっと、こっちを見た」
「見たって……あなた、何なんですか。ていうか、今朝、私にぶつかりましたよね」
「それはあとで謝る。先に、これを何とかしてくれないか」
男は挟まれた脚へ目を落とした。
「無事だったら、絶対に謝ってもらいますからね」
こんな状況でも腹が立つものは腹が立つ。
凪は座席の背をつかみながら、男のところまで登った。
足首が曲がっているようには見えない。出血もない。ただ、衝撃で外れた金属の手すりが靴を押さえ込んでいた。
「痛みます?」
「少し。でも感覚はある」
「じゃあ、私がこれを持ち上げるので、合図したら脚を抜いて」
凪は金属の隙間へ両手を入れた。
「いきます。せーの!」
腕に力を込める。
重い。
夜勤明けの体に、最後の仕事を押しつけられたようだった。
「今!」
男が脚を引き抜いた。金属が大きな音を立てて元の場所へ落ちる。
その音に反応したように、車両が震えた。
窓の向こうの海に、巨大な波が立つ。
「戻るぞ」
「戻るって、どこへ?」
「君がいた車両。早く」
男はヘッドホンを外し、凪の頭へ押しつけた。
「ちょっと、何するんですか」
「海の音を聞くな」
耳が覆われた瞬間、凪は気づいた。
それまで波音だと思っていたものに、声が混じっていた。
ここで眠ればいい。
もう帰らなくていい。
仕事のことも、明日のことも、全部忘れていい。
聞こえなくなったはずなのに、その言葉だけが頭の内側に残っている。
「ここは何なんですか」
「帰る場所を忘れた人が落ちるところ」
男は凪の腕をつかみ、座席を足場に下り始めた。
「僕は、何日もここから出られなかった」
「でも、朝、駅にいたでしょう」
「電車があの駅へ近づいたときだけ、影を駅の近くへ出せる。誰かに気づいてほしくて、駅前を歩いてた」
「それで私にぶつかった?」
「普通は、誰にも触れられない。君が振り返ったから驚いた」
あのときの、男の不思議そうな顔を思い出す。
首を傾げたのではない。
凪とぶつかったことに、男の方も驚いていたのだ。
「声は?」
「向こうでは出なかった。追いかけようとしたら、ここへ戻された」
「感じ悪い人だと思ってました」
「それは本当にごめん」
「遅いです」
二人が連結部分へたどり着いたとき、車両が大きく傾いた。
壁だった海が迫ってくる。
凪は先に元の車両へ移り、男へ手を伸ばした。
「つかまって!」
男がその手を取る。
引き上げた直後、連結扉が激しい音を立てて閉まった。
同時に、砂浜へ続いていた扉も閉じる。
車内が暗くなった。
「これで帰れるんですか」
「分からない」
「分からないんですか!」
「今まで、僕を助けに来た人はいなかったから」
凪は文句を言おうとした。
だが、それより先に電車が走り出した。
窓の外を青い海が流れていく。
魚の群れが遠ざかり、白い泡が消え、代わりに見慣れた町の建物が現れた。
線路の音が戻ってくる。
車内灯が点いた。
『次は――』
聞き慣れた駅名が放送された。
凪が降りるはずだった駅だった。
「戻った……」
隣を見る。
男は座席に腰を下ろし、自分の両手を確かめるように見つめていた。
「僕も、帰れる」
その声に、凪は初めて男も怖かったのだと気づいた。
電車がホームへ滑り込む。
扉が開くと、凪は男から借りたヘッドホンを返した。
「はい。もう影になって、人にぶつからないでくださいね」
「もうしない。それと――」
男はヘッドホンを首に掛け、今度はきちんと凪の顔を見た。
「助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
凪はホームへ降りた。
男もそのあとに続く。
「あなたは、どこへ帰るんですか」
凪が尋ねると、男は改札の向こうを見た。
「まだ覚えてる。だから大丈夫」
そう言って、少し笑った。
凪も自分の帰る場所を思い浮かべる。
散らかった部屋。冷蔵庫の卵。干さなければならない洗濯物。そして、何より自分の布団。
華やかでも特別でもない。
それでも今は、早く帰りたかった。
「じゃあ、帰りましょうか」
凪が歩き出すと、男も隣を歩き出した。
二人の影は、今度こそ同じ方向へ伸びていた。
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結末 五 帰る場所




