第十九章 お母さんが乗る電車
第十九章 お母さんが乗る電車
凪は、次の電車が来るまで女の子と待つことにした。
「じゃあ、あそこのベンチに座ろうか。お母さんが来ても、すぐ分かるように」
「うん」
うーちゃんは素直に頷いた。
小さな手を取る。夜勤中、熱を出した子どもの手を握ることはある。けれど、病院の外で子どもと手をつないで歩くのは妙な感じがした。
ベンチに並んで座ると、うーちゃんの足は床に届かず、ぶらぶらと揺れた。
「お母さん、次の電車で来るのかな」
「分かんない。でも、お母さんね、電車を動かす人なの」
「え?」
凪は眠気のせいで聞き間違えたのかと思った。
「電車を動かす人?」
「うん。かっこいいんだよ。帽子かぶって、しゅっぱつしますってするの」
うーちゃんは両手で丸を作り、目に当てた。どうやら双眼鏡のつもりらしい。
「今日はお父さんと見に来たの。お母さんが運転する電車」
「お父さんもいるの?」
「いたよ」
過去形だった。
凪はこめかみを押さえた。母親とはぐれたのではなく、父親とはぐれたらしい。それも、話を聞くかぎりでは、うーちゃんの方が勝手に離れた可能性が高い。
「うーちゃん。お父さん、今ごろすっごく心配してると思うよ」
「でも、お母さんの電車、もう来るもん」
「来るまで一緒に待つけど、来たら駅員さんのところへ行こう。約束できる?」
うーちゃんは不満そうに頬を膨らませたあと、小さく頷いた。
やがて、遠くからレールの響く音がした。
ホームに接近を知らせるメロディーが流れる。うーちゃんが弾かれたように立ち上がったので、凪は慌ててその手をつかんだ。
「走らない」
「お母さん!」
電車がホームへ滑り込んでくる。
先頭車両が近づいたとき、運転席にいた女性の顔が、凪にもはっきり見えた。
制服姿の女性は、ホームのうーちゃんを見た瞬間、目を見開いた。
驚き。安堵。そして、ものすごい怒り。
その全部が一度に顔に浮かんだ。
「あ。お母さん」
うーちゃんが嬉しそうに手を振る。
凪は離さなかった。むしろ、逃げられないように手を握り直した。
電車が停止し、扉が開く。
少し間を置いて、車外スピーカーから女性の声が流れた。
『ホームにいる、うーちゃん』
駅の案内らしからぬ呼びかけに、凪は瞬きをした。
『その場から、絶対に動かないでください』
声は仕事中のものらしく、よく通り、落ち着いていた。
けれど最後の「ください」だけが、わずかに震えていた。
「はあい」
うーちゃんは満足そうに返事をする。
「いや、絶対めちゃくちゃ怒ってるよ、あれ」
凪が小声で言うと、うーちゃんはようやく不安そうな顔になった。
そのとき、階段の方から足音が響いた。
「潮!」
息を切らした男性が、転がるようにホームへ駆け下りてきた。その後ろから駅員も走ってくる。
男性はうーちゃん――潮を抱きしめると、怒鳴る代わりに何度も名前を呼んだ。
「勝手にいなくなるな。どれだけ探したと思ってるんだ。おばあちゃんも泣いてるぞ」
「だって、お母さんの電車……」
「みんなで見るって言っただろ」
凪は、その場にしゃがみ込んでしまいそうな男性の背中を見て、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
駅員に事情を説明しているあいだに、運転席の窓が開いた。
潮の母親が顔を出す。
「そちらの方!」
呼ばれて凪が顔を上げると、隣で潮の父親が深く頭を下げた。
「この子を見ていてくださったんですね。本当に、ありがとうございました」
母親も深く頭を下げた。そして潮を見る。
「帰ったら、お話があります」
「……はい」
潮は父親の胸に顔をうずめた。
扉が閉まり、電車がゆっくり動き出す。先頭車両が凪の前を通り過ぎるとき、運転席の母親がもう一度、小さく頭を下げた。
潮は父親に抱かれたまま、その電車が見えなくなるまで手を振っていた。
「お母さん、乗ってたでしょ」
「うん。乗ってたね」
乗っていた、というより、動かしていた。
凪は可笑しくなって笑った。
母親が迎えに来るのではなかった。
潮はただ、働く母親をひと目見たくて、ここまで来たのだ。
夜勤明けの自分を待っている人なんていない。さっきまでは、そう思っていた。
けれど、誰にも見られていないと思って働く朝にも、どこかで誰かが、あんなふうに手を振っているのかもしれない。
次の電車に乗り込むころには、凪の眠気は少しだけ軽くなっていた。
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結末 四 お母さんが乗る電車




