第二章 心地よい揺れ
第二章 心地よい揺れ
ぶつかった相手は、ヘッドホンをつけた若い男だった。
「あ、すみません」
凪の声に反応したのか、男が一度こちらを振り向いた。
そして、わずかに首を傾げた。
それだけだった。
何も言わずに顔を戻し、そのまま歩いていく。
凪は、遠ざかる背中をしばらく見ていた。
……何よ、その反応。
肩にはまだ、ぶつかった感触が残っている。あれだけの勢いで当たったのだから、気づかなかったはずはない。
「人にぶつかったら、まずはごめんなさいでしょうに」
口から漏れた声は、思ったより大きかった。
近くを歩く人がちらりとこちらを見たので、凪は口を閉じた。
別に、謝ってほしくて謝ったわけではない。こちらも考え事をしていたし、避けきれなかったのだから。
でも、首を傾げることはないでしょう。
何、その、こっちが変なことを言ったみたいな顔。
バッグを肩に掛け直し、駅へ向かった。
改札に交通系ICカードをかざす。短い電子音を聞きながら通り抜け、ホームへ続く階段を下りた。
電光掲示板を見ると、次の電車は三分後だった。
三分。
たった三分なのに、今は妙に長い。
凪は列の後ろに立ち、バッグの持ち手を握った。
今頃、あの男は何事もなかったような顔で歩いているのだろう。ぶつかったことなど、もう忘れているに違いない。
せめて会釈くらいすればいいのに。
首を傾げる暇があったら、頭を下げればいいのよ。
頭の中では、本人に言えなかった文句が次々と浮かんできた。
やがて、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
ホームに入ってくる車両を見て、凪はほっと息をついた。
ようやく帰れる。
開いたドアから、空いている車両に乗り込んだ。
夜勤明けに乗るこの時間の電車は、大抵座ることができる。朝の混雑にぶつからずに済むのはありがたかった。
凪は端の席に腰を下ろし、バッグを膝に抱えた。
足が楽になった途端、肩からも力が抜けた。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
窓の外で、ホームに立つ人たちが後ろへ流れていった。
あと少し。
降りる駅までは、まだ時間がある。
さっきまであんなに腹が立っていたのに、座ってしまうと、男の顔を思い出すのも面倒になった。
車輪の音が、一定の間隔で響く。
電車の揺れが心地よかった。
凪は膝のバッグに手を置いたまま、いつの間にか目を閉じていた。
*
駅名を告げる声で、目が覚めた。
凪は顔を上げた。
今、何て言った?
ドアの上の案内表示を見る。
一瞬、そこにある文字の意味が頭に入ってこなかった。
見覚えはある。知っている駅だ。
ただし、降りるはずだった駅ではない。
「……うそ」
路線図を目でたどる。
一つ、二つ。
降りるはずの駅は、すでにいくつか手前になっていた。
寝過ごした。
凪は背もたれから体を起こした。
電車はすでに速度を落とし、ホームへ滑り込もうとしていた。
ここで降りれば、反対方向の電車で戻れる。
けれど、ようやく目を覚ましたばかりの体には、まだ心地よい揺れが残っていた。
この先まで乗ったことは、ほとんどない。
凪は窓の外を見た。
電車が止まり、ドアが開いた。
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① この駅で降りて、引き返す。
こちらを選んだあなたは、第四章へ進んでお読みください。
② このまま、電車に揺られて乗っていく。
こちらを選んだあなたは、第五章へ進んでお読みください。




