第十六章 記録にない駅
第十六章 記録にない駅
車掌の口が動いた。
けれど、何を言ったのかは分からなかった。
電車は速度を上げ、最後尾の車両もホームの先へ消えていく。
あとに残ったのは、車輪の音と、電車が起こした風だけだった。
凪はしばらく線路の先を見つめていた。
「何だったんだろう」
忘れ物はない。
危険だから下がれと言われたわけでもなさそうだった。
そもそも、本当に凪へ何かを伝えようとしていたのだろうか。車掌が業務上の確認をしていただけで、目が合ったと思ったのも気のせいかもしれない。
夜勤明けで、頭がぼんやりしている。
考えれば考えるほど、自分の記憶に自信がなくなってきた。
向かいのホームへ、電車の到着を知らせる放送が流れた。
今度こそ帰ろう。
凪はベンチへ座らず、黄色い線から十分に離れた場所で電車を待った。
数分後、反対方向の電車が入ってきた。
車内には何人もの乗客がいた。スマートフォンを見ている人、買い物袋を足元に置いている人、小さな声で話している学生。
見慣れた朝の電車だった。
凪は空いている席を見つけたが、座らなかった。
扉の近くに立ち、停車するたびに駅名を確認する。
眠気はまだ残っていた。それでも、目を閉じる気にはなれなかった。
やがて、聞き慣れた駅名が流れた。
凪は電車を降り、改札を抜けた。
いつもの商店街を歩き、いつもの角を曲がる。見慣れた建物が近づくにつれて、肩の力が抜けていった。
自宅の鍵を開けた瞬間、ようやく息を吐いた。
「疲れた……」
靴を脱ぎ、バッグを床へ置く。
家へ帰ったら顔を洗い、着替えて、何か食べるつもりだった。
だが、もう何もしたくない。
せめてスマートフォンのアラームだけは設定しておこうと、バッグから取り出した。
画面を開くと、交通系ICカードの残高が目に入った。
乗り過ごしたぶん、いつもより運賃がかかっているはずだ。
何となく気になり、利用履歴を開いた。
病院の最寄り駅。
自宅の最寄り駅。
表示されているのは、その二つだけだった。
「……あれ?」
凪は画面を指で動かした。
何度確認しても、乗り過ごして降りた駅の名前がない。
運賃も、いつもの通勤分しか引かれていなかった。
そんなはずはない。
確かに改札を通った。電車に乗り、眠ってしまい、知らない駅で降りた。向かいのホームへ移動し、車掌と目が合った。
そこから電車で戻ってきた。
夢ではない。
だが、履歴には何も残っていなかった。
「夜勤明けだからかな」
凪は自分に言い聞かせた。
電車の中で夢を見たのかもしれない。
本当は乗り過ごしてなどいない。いつもの駅で降り、いつもの道を歩いて帰ってきた。
そう考えるほうが自然だった。
もう頭が限界なのだ。
凪はスマートフォンを置き、着替えもそこそこに布団へ潜り込んだ。
目を閉じると、眠りはすぐにやってきた。
*
目を覚ましたとき、部屋は暗くなっていた。
何時間眠ったのか確認しようとして、凪は枕元を探った。
スマートフォンがない。
そういえば、バッグのそばに置いたままだった。
布団から出て、床に置いたバッグを持ち上げる。
その下に、小さな紙が落ちていた。
切符ほどの大きさだった。
拾い上げる。
表には、凪が降りたあの駅の名前が印刷されていた。
裏返すと、黒い文字で一行だけ書かれている。
凪は眠気の残る目で、その言葉を読んだ。
次は、降りないでください。
部屋の外から、遠くを走る電車の音が聞こえた。
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結末 一 記録にない駅




