第十五章 二冊だけの本屋
第十五章 二冊だけの本屋
開いていたのは、本屋だった。
凪は足を止め、店先を見上げた。
古い木製の看板には、店名らしい文字が残っている。長い間、雨風にさらされてきたのか、ところどころ薄れて読めなくなっていた。
この店の前は何度も通っている。
けれど、開いているところを見た記憶は一度もない。
窓にはいつもカーテンが引かれ、扉には営業時間も定休日も書かれていなかった。もう営業していない店なのだと思っていた。
その扉に今日は、白い札が掛かっている。
OPEN
黒い文字は新しく、札だけが周囲から浮いて見えた。
「今日、開いてるんだ」
凪は小さく呟いた。
家へ帰って眠るつもりだった。
体は重いし、目を閉じれば立ったままでも眠れそうだ。
それでも、今まで一度も開いていなかった店が、今日に限って開いている。
気にならないわけがなかった。
少し見るだけ。
凪は自分にそう言い聞かせ、扉に手を掛けた。
軋む音とともに、ゆっくり開く。
「失礼します」
声をかけたが、返事はない。
店内は外から見たよりも暗かった。
古い紙と木の匂いがする。
左右の壁には天井まで届く本棚が並んでいた。しかし、どの棚にも本は一冊も入っていない。
空の棚だけが、細長い店の奥まで続いている。
「本屋……だよね?」
凪の声が、静かな店内に響いた。
閉店した店を、誰かが片づけている途中なのだろうか。
それなら、OPENの札を出す理由が分からない。
「すみません。誰かいませんか?」
もう一度呼びかけても、返事はなかった。
引き返そう。
そう思って扉を振り返る。
扉はちゃんとそこにある。
まだ開いていて、商店街の朝の光が細く差し込んでいた。
少し安心した凪は、店の奥へ目を向けた。
空の本棚の先に、小さな机が置かれている。
その上に、本が二冊あった。
店中を見渡しても、ほかに本はない。
凪はゆっくりと机へ近づいた。
二冊は同じ大きさだった。
どちらも白い表紙で、飾りも絵もない。違うのは、表紙の中央に書かれた題名だけだった。
一冊目には、こう書かれている。
町田凪
凪は息を止めた。
「……私?」
指先で文字に触れる。
印刷された文字だった。あとから誰かが書き足したようには見えない。
どうして、自分の名前が本の表紙にあるのだろう。
同姓同名。
そう考えるのが普通だ。
町田も凪も、あり得ないほど珍しい名前ではない。
けれど、隣の本を見た瞬間、その考えは消えた。
二冊目の表紙には、名前の代わりに一言だけ書かれていた。
あなた
凪は二冊の本を見比べた。
「何、この本……」
店の奥から、紙をめくる音がした。
凪は顔を上げた。
誰もいない。
空の本棚が並んでいるだけだ。
もう一度、音がする。
ぱらり。
今度は、目の前からだった。
凪は机の上を見る。
二冊の本は閉じたままだ。
それなのに、中のページだけが動いているような音がした。
恐る恐る、「町田凪」と書かれた本へ手を伸ばす。
表紙を少し持ち上げると、最初のページに文字が見えた。
――午前九時半。町田凪は、病院の自動ドアを抜けた。
凪は表紙を閉じた。
心臓が速く打っている。
今朝のことだ。
自分しか知らないはずの、自分の帰り道。
では、もう一冊には何が書かれているのか。
凪は「あなた」と書かれた本を見た。
こちらの表紙には、いつの間にか新しい文字が浮かんでいた。
――ここまで読んだあなたへ。
凪はその一文を見つめた。
誰に向けられた言葉なのか分からない。
自分なのか。
それとも、この場にはいない誰かなのか。
店のどこかで、またページをめくる音がした。
二冊とも、凪が開くのを待っている。
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① 表紙に「町田凪」と書かれた本を開く。
こちらを選んだあなたは、第三十章へ進んでお読みください。
② 表紙に「あなた」と書かれた本を開く。
こちらを選んだあなたは、第三十一章へ進んでお読みください。
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