第十四章 おやすみと、おはよう
第十四章 おやすみと、おはよう
開いていたのは、パン屋だった。
ガラス戸の向こうには明かりが灯り、棚にいくつものパンが並んでいる。
こんな店、あっただろうか。
凪は商店街を毎日のように通っている。それでも、朝早くから営業しているパン屋があるとは知らなかった。
眠っている店ばかりの通りに、そこだけが朝を迎えている。
ガラス戸を開けると、小さなベルが鳴った。
温かい空気と一緒に、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
「……いい匂い」
自分が空腹だったことを、凪はそこで思い出した。
夜中に休憩は取った。持ってきた食事も食べたはずだ。
それでも夜勤が終わると、もう一度何かを食べたくなる日がある。
「いらっしゃい」
店の奥から声がした。
白いエプロンをつけた、小柄なおばあさんが出てくる。丸い眼鏡の奥で、細い目が優しく笑っていた。
おばあさんは凪の顔を見るなり言った。
「夜勤明けかい?」
「えっ」
凪は自分の服を見下ろした。
仕事着ではない。病院の名札も外している。
「どうして分かったんですか?」
「分かるよ。眠い顔をしてるのに、これから眠る人の歩き方をしてるから」
「どんな歩き方ですか、それ」
「足は家に帰りたがってるのに、鼻だけパンにつられて入ってくる歩き方」
凪は笑った。
確かに、その通りだった。
「ここ、こんなに早くから開いてたんですね」
「朝だけね。お昼前には閉めるよ」
「パン屋さんなのに?」
「この辺には病院もあるし、夜通し働く人もいるだろう。これから仕事へ行く人だけが、朝ご飯を食べるわけじゃないからね」
おばあさんは当然のように言った。
「一日を始める人にも、一日を終える人にも、パンは要るよ」
凪は店内を見回した。
棚にはクロワッサンや食パン、丸いあんパンが並んでいる。どれも焼き色がきれいで、見ているだけで腹が減った。
その中に、二つだけ手書きの札が置かれた籠があった。
一方の籠には、白くて柔らかそうな丸パン。
札には、おやすみと書かれている。
もう一方には、朝日のような橙色をしたパン。
こちらの札には、おはようとあった。
「変わった名前ですね」
凪が言うと、おばあさんは二つの籠を指した。
「白いほうは、ミルクとはちみつを使った柔らかいパン。甘さは控えめで、お腹にも重くないよ」
「これが、おやすみ?」
「そう。食べて、温かいものを飲んで、あとは布団へ入る。よく眠れるよ」
聞いただけで、まぶたが重くなる。
今の自分のために焼かれたパンのようだった。
「じゃあ、こっちは?」
凪は橙色のパンを見る。
「そっちはオレンジと紅茶を練り込んである。香りがよくて、少しだけ苦い」
「おはよう、だから目が覚めるんですか?」
「さあね。私はパン屋で、魔法使いじゃないから」
おばあさんは笑った。
「でも、それを選ぶ人は食べたあと、もう少しだけ今日を続けたくなるみたいだよ」
「もう少しだけ……」
凪は二つのパンを見比べた。
家へ帰って、何かを食べて、眠る。
今日はそのためだけに歩いていた。
白いパンを買えば、予定どおり一日を終えられる。柔らかいパンを食べて、温かい布団に入り、目が覚めるまで眠ればいい。
けれど、橙色のパンも気になった。
今朝の自分は、いつもなら断るような誘いを受けそうになり、知らなかった店の前で足を止めた。
このまま、もう少しだけ歩いてみるのも悪くないのかもしれない。
「今から眠るなら、“おやすみ”」
おばあさんが言った。
「もう少し今日を続けたいなら、“おはよう”」
夜勤明けの午前。
世間にとっては一日の始まりで、凪にとっては一日の終わりだ。
どちらを選んでも、間違いではない。
凪は二つの籠へ手を伸ばした。
⸻
① 白くて柔らかい「おやすみ」を買う。
こちらを選んだあなたは、第二十八章へ進んでお読みください。
② 橙色の「おはよう」を買う。
こちらを選んだあなたは、第二十九章へ進んでお読みください。
⸻




