第96話 その曲を、歌いたいです
日曜日の夕方、石倉さんの制作室へ行った。
安西さんも来ていて、机の上には、二つの曲の資料が並んでいた。
まず録音の仕事の見本を確認し、そのあとで、舞台へ足す曲を聞く。
最初の候補は、ゆっくりとした曲だった。
歌いやすそうで、最後の高いところも好きだった。
ただ、次を聞くと、俺は少し前へ座り直した。
軽い音で始まる。
途中で、短く言葉を返すようなところがある。
最後は、同じ旋律が少し広がって戻ってきた。
俺は、曲が終わってからも、最初の音を頭の中で追っていた。
「こっちが、『椅子をふたつ』です」
石倉さんが言った。
「三分二十秒。二人で部屋を使い始めた、その次の日を考えて作りました」
俺は、歌詞の紙を見た。
もう、借りるかどうかを迷ってはいない。
先に来て、椅子を出している。
その相手が来るのを、少し楽しみに待っている歌だった。
*
「どうですか」
安西さんに聞かれた。
俺は、二枚の紙を見比べた。
どちらも歌ってみたかった。
でも、今、自分の声で試したいのは、後のほうだった。
「『椅子をふたつ』が、いいです」
「どのあたりが好きでした?」
「途中で、少し話すみたいになるところです。そのあと、また歌へ戻るのも」
言ってから、少し考えた。
もう一つ、理由があった。
「レンが、自分で準備してるのも、好きです」
安西さんがうなずいた。
「前の話から、少し変わったところが見えますね」
俺は、紙の端を押さえた。
「これ、歌いたいです」
今度は、候補への感想だけではなく、そう頼んだ。
*
石倉さんが、伴奏を流した。
「一回、声にしてみましょうか。全部でなくてもいいので」
俺は立ち上がった。
初めて聞いたばかりなので、言葉は紙を見る。
旋律は、もう大体入っていた。
最初の音を少し軽く出す。
明るいけど、浮かれすぎない声にした。
相手を待っているのを、あまり知られたくない人だった。椅子を二つ出している時点で、かなりわかるのだけど。
(隠す気、あるのか)
少し笑いそうになり、その感じを声へ残した。
短く話すような部分を言い、もう一度、旋律へ戻る。
音の高さを探すために止まらなくていいので、どんな人が言うのかを考えながら歌えた。
*
途中までで止めると、安西さんが笑っていた。
「今の、いいですね。待ってたのに、別に待ってません、みたいな感じ」
「椅子、出してるんですけどね」
「そう。そこが見えると面白いと思います」
石倉さんも、うなずいた。
「今の声なら、間の音はもう少し軽くできます。小野さんへも送ります」
俺は座り直した。
自分で選んだ曲が、実際に使うほうへ進んでいる。
嬉しかった。
歌を与えてもらうだけでも、もちろん嬉しい。
でも、これがいいと伝えて、それをみんなで考えてもらえるのは、少し違う楽しさがあった。
もう一度、最後まで歌いたかった。
*
終演後の短い場面の話もした。
最初の芝居は、二人が日時を決めて終わる。
そのあと明かりを一度落とし、次の日曜日というつもりで、レンが椅子を出す。
ソウが来て、少しだけ言い合う。
そこから歌へ入る。
森野さんには、木曜日に試してもらうことになった。
「準備するところも、やれます」
俺が言うと、安西さんがこちらを見る。
「椅子を?」
「はい。歌の前に、自分で」
言ってから、演じる役の話なのか、現場の片付けの申し出なのか、少しわかりにくかったと思った。
安西さんは、そのまま台本へ書いてくれた。
「じゃあ、レンが先に出しておくところから」
伝わっていた。
俺は、ほっとしてうなずいた。
*
帰り道、曲の資料を開いた。
三分二十秒。
それだけの長さが、新しく増えた。
家に着いたら、まず歌詞を読もうと思った。
覚えたあとなら、目を上げて森野さんを見て歌える。
駅の階段を下りる前に、再生を止めた。
全部聞きながら歩いていると、足元より曲へ気が向いてしまいそうだった。
(続きは、家で)
スマホをしまう。
今日は、早く帰りたかった。




