第9話 六人分の椅子
三日後、駅の改札前で藤崎さんと合流した。
市民センターへの道は、相原さんが送ってくれた地図で確かめてある。改札から出て、普段あまり行かない側へ歩き出した。
「飲み物、持った?」
「はい」
バッグを少し持ち上げた。
水と、相原さんにもらった紙。財布には、百円玉を四枚入れてある。
家で全部確かめたので、忘れ物はないはずだ。信号で止まると、念のためもう一度見たくなった。
「早く着きそうだね」
藤崎さんが時計を見た。
俺はうなずき、バッグから手を離した。
さっき見た。ちゃんと入ってた。もういいから前を向け。
市民センターには、二時の十分前に着いた。
案内板を見て二階へ上がると、廊下の奥で相原さんが手を振っていた。
「来た来た。こっち」
あの声が聞こえただけで、少し楽になった。
初対面の人だけがいる部屋へ自分で入るのと、呼んでもらえるのとでは、だいぶ違う。
*
音楽室には、六脚の椅子が半円に並んでいた。
前にはマイクスタンドが一本。窓側の机に小さなスピーカーが置いてある。送ってもらった写真と同じだったが、入ってみると、天井が思ったより高かった。
「初めまして。佐伯です」
髪を後ろで結んだ女性が、机の向こうから立った。
「藤崎です。今日はありがとうございます」
「……久瀬です」
俺も続けて頭を下げた。
「こちらこそ。相原くんと歌うんだってね」
「はい」
「楽しみ。荷物は椅子の下でも、壁際でも大丈夫だから」
荷物の置き場を、先に教えてもらえた。
相原さんが練習の日に言っていたおかげで、そこも気になっていたのだ。バッグを足元へ置き、空いている椅子へ座る。
ほかの二人にも挨拶をした。
丸い眼鏡の男性は、膝に譜面のファイルを載せていた。青いシャツの女性は、スマホに繋いでいたイヤホンを外してこちらを向いた。
何を話せばいいか迷う前に、佐伯さんが部屋代を集めに来た。
百円玉を四枚出す。
「ぴったり、ありがとう。助かります」
ちゃんと持ってきてよかった。
歌う前から少し褒めてもらえて、ようやく背もたれに体を預けられた。
*
「一曲ずつ、準備できた人からでいいかな。時間があったらもう一周しましょう」
佐伯さんが言うと、みんながうなずいた。
最初は、佐伯さん自身が前へ出た。机に置かれた小さな鍵盤のスイッチを入れる。
「最近また聞きたくなって、弾いてた曲です」
柔らかい音が鳴った。
知らない曲だった。
佐伯さんは手元を見ながら、ゆっくり歌い始める。声は少し低めで、言葉の最後に息が混ざった。
つい、歌詞を見る画面を探しかけた。
ここにはカラオケの機械がない。耳で聞けばいいのだと気づき、前へ目を戻す。
膝に出していた自分の紙も、バッグへしまった。
続きが気になる。
急に高い音へ上がる曲ではなかった。同じくらいの高さで言葉が続く間に、鍵盤の音が少しずつ変わる。
二番へ入る前に、佐伯さんの手が止まった。
「ここ、逆だった」
小さく言って、弾き直す。
眼鏡の男性がうなずき、そのまま続きを待っていた。佐伯さんも慌てず、同じ速さで歌い始めた。
俺も続きを聞いた。
間違えたら、もう一度やっていいらしい。どうしよう、と周りを見たりしないので、聞く側も普通に待てた。
最後まで行くと、自然に拍手が出た。
「二番、やっとつながった。ありがとう」
佐伯さんは笑って、椅子へ戻った。
相原さんが最後の音について聞くと、譜面を見せて、そこだけ変えたのだと教えてくれている。
紙に書かれた記号までは、俺にはよくわからない。
でも、聞きたいことはあった。
「……今の、曲名、何ですか」
佐伯さんが顔を上げた。
「『四月の傘』。少し前の曲だけど、知ってた?」
「いえ。聞いてみたくて」
「うれしい。原曲もいいよ。二番が好きなんだ」
スマホへ曲名を打った。
歌会に来る前は、挨拶のあと何を話すかまで気にしていた。今は、聞きたい曲の名前を教えてもらっている。
こういう話なら、俺もしたかった。
*
次は、眼鏡の男性が立った。
古い映画で流れていた曲だという。伴奏が始まると、青いシャツの女性が「あ、これ」と言った。
男性は大きく息を吸い、まっすぐ歌い出した。
佐伯さんとは、だいぶ違う。
言葉の終わりを長く伸ばして、サビでは声が部屋いっぱいに広がった。本人も気持ちよさそうだ。
横を見ると、青いシャツの女性が小さく口を動かしている。一緒に歌っているらしい。
俺は曲を知らないので、次を待って聞いた。
こんな歌い方もできたら、気持ちいいだろうなと思う。自分ならどうなるか想像しかけ、今は人の番だと、また前へ目を戻した。
歌い終えると、男性はマイクから離れて息を吐いた。
「この前は最後で足りなくなったけど、今日は持ったな」
「最初から飛ばしすぎなかったからじゃない?」
佐伯さんが答えた。何度か一緒にやっているらしく、前の歌い方のことも話していた。
俺も水を飲んだ。
自分の番が来るまで、緊張して待つだけになるかと思っていた。実際には、ほかの人の歌を聞いている間に、時間がたっている。
来てよかったと、もう少し思い始めていた。
*
「私、次いいですか」
藤崎さんが立ち上がった。
佐伯さんに伴奏の準備を手伝ってもらい、スマホを机へ置く。マイクの前へ行きかけてから、俺のほうへ戻ってきた。
「うなずいたら、再生押してもらっていい?」
「はい」
「ここのボタン。始まったら、そのままで大丈夫」
示された場所を確かめ、机のそばへ移動した。
藤崎さんはマイクの前に立って、部屋を見回した。
「『窓の灯り』を歌います。よろしくお願いします」
声が、普段より少し高かった。
俺はスマホへ指を近づけ、藤崎さんの顔を見て待った。うなずいたのを確かめてから、再生を押す。
鍵盤の前奏が流れた。
いつものカラオケ店より、音が遠くへ広がる。藤崎さんは最初の声を出してから、マイクを少し近づけた。
静かな声も、部屋の端まで届いた。
サビの前が近づく。
俺が好きだと言ったところだ。
その少し手前で、佐伯さんが膝の紙へ目を落とした。
藤崎さんの目も、一度そちらへ動く。
次の言葉は、急がなかった。
顔を上げ、座っている人たちを見ながら、その先を歌う。眼鏡の男性がファイルを閉じた。
机の横からでも、藤崎さんの声がよく聞こえた。
二番へ進むと、最初より声が柔らかくなった。強く出すところまで、十分に息を残している。
最後のサビでも、苦しそうにはならなかった。
伴奏が消えるまで待って、藤崎さんが頭を下げる。
俺もスマホから手を離し、拍手をした。
*
「二番、誰かに話してるみたいで好きだったな」
佐伯さんが言った。
「ありがとうございます。最初、声が遠くて」
「部屋が広いからね。でも、途中から聞きやすかったよ」
青いシャツの女性は、一番の終わり方が好きだったと話した。
俺がいつも待っていたところとは、また違う。藤崎さんもうなずきながら聞き、それから自分の椅子へ戻ってきた。
「再生ありがとう」
「いえ」
スマホを返し、水を飲むのを待った。
「途中、急がなかったですね」
「あ、わかった?」
「サビの前です」
藤崎さんは少し笑った。
「佐伯さんが下見たとき、何か変だったかなって、一瞬思ったんだよね」
やっぱり、気になっていたらしい。
「去年も審査の人が何か書き始めたら、そっちばっかり気になっちゃって。そのあと、先に先にって歌ってたと思う」
「今日は、待ててました」
「うん。次にどこで息を吸うか、今回はわかってたから」
手元へ目を落とし、指を開く。
「最後まで、苦しくならなかった」
声が少し弾んでいた。
俺もうなずいた。初めて練習した日は、高い曲を歌い終えると、大きく息を吐いていた。今日は、普通に話して、ほかの人の感想も聞いている。
それが、藤崎さんには嬉しいのだろう。
もう一度水を飲む顔を見て、俺も少し嬉しくなった。
*
「次、久瀬くん、準備できる?」
佐伯さんに呼ばれ、うなずいた。
藤崎さんの歌を聞いている間は平気だったのに、自分の番になると口の中が乾いてきた。
俺も、もう一口だけ水を飲む。
相原さんが椅子を前へ出し、ギターを持って座った。俺は、その少し右に立つ。
目の前の椅子には、四人が残っていた。
藤崎さんと、今日初めて会った三人。
全員と挨拶は済んでいる。佐伯さんには曲名を聞いた。少し前より、顔を見るのが楽だった。
マイクをスタンドから外し、持ち直す。
「『帰り道』を歌います。よろしくお願いします」
眼鏡の男性が、小さくうなずいた。この曲を知っているのかもしれない。
相原さんを見ると、弦の上に手を置いて待ってくれていた。
「いける?」
「……はい」
肩を下ろし、ギターの前奏を聞く。
あの終わり方を、今日はここで聞いてもらえる。




