第10話 曲名をもう一度
相原さんのギターは、練習のときより少し遠く聞こえた。
すぐ左にいるのに、音が部屋の奥へ広がっていく。いつものカラオケ店とは違うのだと、弾き始めたところでわかった。
右手が動くのを見て、息を吸う。
最初の声は、ちゃんと出た。
目の前の四人が、こちらを向いた。
聞いてもらうために来たのだから、そうなる。それでも一度に顔が上がると、左手をどこへ置くかまで気になった。
体の横に下ろしておく。
その間も、声は続けられた。
次の音も、息を足す場所もわかる。二行目まで歌うと、この部屋で伴奏がどのくらいの強さで聞こえるかもつかめてきた。
少し声を落とす。
言葉は、はっきり残った。
ギターが静かになっても、自分だけ大きくならない。短い言葉も、無理に押し出さずに次へつなげられる。
歌唱を上げておいて、よかった。
顔を見られると今も気になるが、歌いたかったとおりの声は出せていた。
*
サビの前で、青いシャツの女性がグラスを取った。
目が手元へ落ちる。
退屈だっただろうか、と一瞬思い、自分もさっき水を飲んだことを思い出した。
(水くらい飲ませろよ、俺)
グラスから目を離し、相原さんの手元へ戻す。
相原さんの弦が鳴り、次の言葉へ進んだ。
高い音へ向かっても、喉に力を入れずに続けられた。少し前なら、出るだけで嬉しかったところだ。
今は、どのくらい伸ばしたいかも選べる。
一番の終わりで、少し声を細くした。
相原さんがこちらを見る。
声が消えるのを待ってから、ギターの音が入った。
練習のときに、これがいいと思った終わり方だった。
佐伯さんの顔が上がっていた。眼鏡の男性は、閉じたファイルに両手を置いている。
今のところも、聞いてくれただろうか。
少し嬉しくなったまま、二番へ進む。
最初から強くせず、言葉の切れるところで間を取った。隣の人へ話すくらいの声でも、曲に合う。
急がなくていい。次の音までに、ちゃんと時間が残っていた。
相原さんのギターも、同じ速さで続いている。
二番のあとの長い間奏に入ると、マイクを少し下ろした。
相原さんは手元を見て弾いていた。足先で拍子を取り、最後の何音かでこちらを向く。
うなずいた。
俺もうなずき返し、息を吸った。
最後のサビは、さっきより少し強く歌った。
高い音が伸びる。次の言葉へ移っても、声の流れは切れなかった。
まだ、余裕がある。
この先も歌っていたかったが、曲はもう終わりに近かった。最後の言葉まで出し、静かに声を落とす。
相原さんの右手がゆっくり動き、ギターも小さくなった。
音が消えるまで、待った。
「ありがとうございました」
頭を下げると、拍手が聞こえた。
顔を上げ、左の相原さんにも向き直る。
「……ありがとうございます」
相原さんは笑い、ギターを持ったまま軽く頭を下げてくれた。
*
椅子へ戻って座ると、大きく息が抜けた。
歌っている間は足りていたのに、終わった途端、深く吸いたくなる。ようやく力を抜けたらしい。
水を取ろうとしたところで、青いシャツの女性に声をかけられた。
「ごめん、曲名、もう一回教えてもらってもいい?」
「『帰り道』です」
「ありがとう。知らない曲だったけど、聞いてみたくなって」
女性はスマホに打ち込んでいた。
俺は、返事を忘れてその手元を見た。
さっき佐伯さんに、自分も同じことを聞いた。
もう一度聞きたいと思って、曲名を残したのだ。
「……ありがとうございます」
少し遅れて返した。
退屈どころか、また聞きたいと思ってくれていたらしい。
何がわかるんだ、人が水を飲むところを見ただけで。勝手に落ち込んで損した。
聞きたくなってもらえたのか。
言ってもらった言葉を、もう一度頭の中で確かめていた。
「途中の早いところも、言葉が聞こえたね」
佐伯さんが言った。
「ギターだけだと声がよく聞こえるから、あそこ難しそうなのに」
「……今日の前に、合わせてもらって」
相原さんを見ると、ギターに手を添えてうなずいていた。
「最後を待ってほしいって、久瀬くんが言ってくれたんだよ。そこから、あの感じでいこうかって」
俺が全部考えて頼んだように聞こえると、少し違う。
「弾いてもらったら、やってみたくなったので」
「うん。俺も、待つほうが好きだった」
相原さんは普通に答えた。
言ってみて、よかったのだと思う。今聞いてもらえたあの終わり方は、そのときに決めたものだった。
眼鏡の男性も、曲を知っていたと教えてくれた。
「俺は、もっと賑やかに歌ってたな。そっちのほうが好みなんだけど、こういうふうにもなるんだね」
原曲は、もっと明るい声だ。
俺もあの歌が好きで、ずっと聞いている。
「最後を静かにするのが、今は好きで」
少し考えてから答えた。
「うん、ギターと合ってた。二人で決められると、そういうのできていいね」
男性は相原さんにも話しかけた。
好みが違っても、変えたほうがいいと言われたわけではなかった。こっちが好きだと答えても、そのまま話を続けてくれた。
藤崎さんが、隣でもう一度小さく拍手してみせる。
「一曲、ちゃんと聞いてもらえたね」
「……はい」
うなずき、水を飲んだ。
帰ったら、今日のことを何度か思い出すと思う。今すでに、曲名を聞かれたところを、かなり思い出していた。
*
次は、相原さんが自分の曲を歌った。
前に出した椅子を少し中央へ寄せ、ギターを構える。
俺の伴奏のときとは、右手の動きが違った。短い音が軽く続き、その間へ声が入る。
練習で選んだ、少し速いほうだ。
眼鏡の男性の足が動き始めた。
俺も膝の上で指を動かす。サビへ入ると、青いシャツの女性が顔を上げ、笑って聞いていた。
相原さんは最後まで歌い、右手を止めてから息を吐いた。
「こっちの速さにしてよかったな」
ギターを下ろし、俺たちへ小さく言う。
「うん。やっぱりそっち好き」
藤崎さんが答えた。
相原さんは紙を出し、曲名の横へ丸をつけた。練習で決めたことが、ほかの人の前でもできたらしい。
最後は、青いシャツの女性だった。
軽いテンポの曲で、短い言葉が次々に続く。サビに入ると、本人の体も少し動いた。
部屋へ来たとき、どんな人なのか考えていたが、歌ってみると、少しわかる気がした。こういう曲が好きなのだ。
歌い終えて戻ってきたところで、俺も声をかける。
「サビのところ、楽しかったです」
「そこが好きで選んだんだ。ありがとう」
女性が笑った。
言ってよかった。
自分が選んだところを好きだと言ってもらえる嬉しさは、さっきよくわかったところだった。
*
一周すると、佐伯さんが残り時間を確かめた。
二周目は、試したい部分がある人が短く歌うことになった。眼鏡の男性が別の曲のサビを出し、相原さんがギターで最初の音を探している。
俺も何か歌いたかったが、そのやり取りを聞いていた。
知っている曲なら、こんなふうに途中から合わせられるのだろうか。まだ知らない曲も多いので、次に来るなら、もう少しいろいろ聞いておきたい。
佐伯さんが短い前奏を弾き直すと、さっきの歌い出しを思い出した。
『四月の傘』は、帰ったら探そう。
終了十分前になり、みんなで片付けを始めた。
相原さんはギターをしまい、藤崎さんは音源を使っていた接続を外す。俺は空いた椅子を、壁の写真と同じ並びへ戻した。
これは、仕事で慣れていた。片付ける場所が決まっていれば、あまり考えなくて済む。
「助かる。ありがとう」
佐伯さんが鍵盤を片付けながら言った。
「来月も、できたらやるつもりなんだ。決まったら相原くんに知らせるから、都合が合えばまた来てね」
俺は椅子から手を離した。
「……はい。お願いします」
「別の曲でも、同じ曲でもいいからね」
うなずいた。
同じ曲でもいい。でも、別の曲も歌ってみたかった。
頭の中に候補がいくつか浮かぶ。まだ次の開催日も決まっていないのに、どれを歌うか悩み始めていた。
*
四時に音楽室を出た。
玄関で佐伯さんたちと別れ、三人で駅へ向かう。途中で商業施設の建物が見えたので、俺は足を緩めた。
「大会の場所、少し見ていってもいいですか」
「いいよ。ここから入れる」
藤崎さんが入り口を指さした。相原さんも時計を見て、少しなら大丈夫だと言ってくれた。
吹き抜けの下に入ると、写真で見たステージはなかった。
今は低い展示棚が並び、その間を買い物客が歩いている。
「当日は、このあたりに舞台ができるんだよ」
藤崎さんが示した場所を見る。
歌会の部屋より、ずっと広い。
上の階には手すりがあり、下を見ている人もいた。客席に座らなくても、通りかかったところから見られるらしい。
正面の椅子だけを想像していたので、少し落ち着かなくなった。
あの上にも、人が来るのか。
でも、今日は知らない三人の前でも歌えた。曲名を聞きたくなったと言ってもらえた。
ここでも、そういう人が一人くらいいたら嬉しい。
もう少しいたら、もっと嬉しいと思う。
そう考えながらも、立つ場所を想像すると、お腹のあたりがそわそわした。
予選まで、あと十三日だった。
入り口近くのベンチで少し休み、次の練習は予定を見て決めることにした。相原さんがギターを持ち直し、先に駅へ向かう。
藤崎さんとも別れ、五時頃、通路の端でゲームを開いた。
使えるキューブは六十一兆を超えていた。
複製プラントを買ってから三日。今日歌っている間も、毎秒二億を超える速さで増え続けている。
【歌唱 Lv.5】
【料理 Lv.1】
【所持スキルポイント:6】
帰ったら、合成ユニットの値段を見直そう。
そのあと、ご飯を作って、曲も聞きたい。
やりたいことがいくつかあったが、最初は決まっていた。
ゲームを閉じてイヤホンを付け、メモに残した『四月の傘』を探した。




