第11話 買えるけど、買わない
『四月の傘』を、もう一回聞きたい。
二回目を聞き終えたところでアパートに着いた。佐伯さんが歌っていたものより、原曲は少し速い。二番で重なる声も好きだった。音楽室で聞いたときには、そこは鍵盤だけだったと思う。
玄関でイヤホンを外す。曲はあとでまた聞けるので、先に夕飯を作ろう。
バッグから水筒を出し、相原さんにもらった紙をテーブルへ置いた。最後の音の横に、『待つ』と書いてある。
今日、本当に待ってもらった。
俺が声を落としてから、ギターの音が入ったところを思い出す。聞いていた人にも曲名を聞かれたし、あれは、けっこうよかったのではないだろうか。
自分の歌をそんなふうに思う日が来るとは。
紙を広げたまま冷蔵庫へ向かった。朝に炊いたご飯と、使いかけの玉ねぎ。肉は冷凍庫にある。
肉の袋を水につけてから、テーブルの前へ戻った。
六時だ。
夕飯の前に、ゲームの買い物を済ませよう。
*
所持キューブは六十二兆を超えていた。
合成ユニットは三基。その下に、四基目の値段が出ている。
【次の購入価格:5,120,000,000,000】
五兆一千二百億。
複製プラントを買うまでは、これを我慢していた。今なら残高の一割も使わずに増やせる。
購入した。
数字が速くなるのを少し眺めてから、次も見る。
【次の購入価格:40,960,000,000,000】
四十兆九千六百億。さっきの八倍だ。
まだ押せる。そこが厄介だった。
買えないなら、さっさと閉じられる。でも、もう一基置けば増えることはわかっているので、つい欲しくなる。
こういうときに、続けて押すと損をする。
俺は下の設備を開いた。
複製プラントの二基目は百六十兆だった。さらに、その下にまとめて強化する項目がある。
【複製工程の効率化】
【必要キューブ:100,000,000,000,000】
【すべての複製プラントの生産量 ×2】
百兆で、今の一基が二倍になる。
もう一基買うより六十兆安い。しかも、あとから買うプラントも最初から二倍になるらしい。
これはいい。
背筋を少し伸ばし、合成ユニットと比べた。四十兆の合成を一基増やしても、その一基で使った分を取り戻すには一か月近くかかる。こっちの効率化なら、増えた分だけで一週間ほどだ。
予選までに働いてもらえるし、そのあともずっと速い。
次は、百兆を貯めよう。
買うものが決まると、安い設備も確かめたくなった。百兆まで待つのに役立つものなら、今のうちに足しておきたい。
生成炉を六基、組立ラインを三本買う。炉は十八基、ラインは八本になった。次の値段が大きく上がったところで、追加をやめた。
【生産速度:226,848,256/秒】
毎秒二億二千六百八十四万ほど。残高は五十六兆まで減ったが、古い設備もまとめて増やせば、ちゃんと役に立つ。
百兆には、丸二日より少し長く待てば届く。
寝る前に何度も開かなくてもよさそうだった。明日は仕事があるし、その次の日も普通に過ごせばいい。
それで、さっき欲しかった大きい強化が買える。
俺は満足して画面を閉じた。
台所では、肉がまだ固まっていた。
ああ、もう。買い物している間にほぐれてると思ったのに。先に玉ねぎを切るか。
*
玉ねぎを切り、調味料と皿を先に出した。
料理を一点上げてから、こういう支度で迷わなくなった。切り始めてから置くところがなくなる、ということもない。
まだレベル一だ。それでも、以前の俺にはかなり必要な一点だった。
肉がほぐれてきたので、フライパンを火にかける。玉ねぎと炒め、醤油と砂糖で味をつけた。火を止める頃には、かなり腹が減っていた。
一切れつまみ、口へ入れる。
(熱い。当たり前だろ。今、火を止めたばっかりだ)
皿をテーブルへ運び、ご飯をよそった。今度はちゃんと冷まして食べる。
うまい。
一人で過ごす休日は好きだ。昼まで寝て、何か食べて、ゲームを開く。それだけで夕方になっていても、俺はけっこう満足している。
今日は歌会から帰りに寄った会場まで、ずっと人と一緒だった。今は黙って、ご飯を食べているのが楽だった。
次の練習はいつだろう、と思ったところで、スマホに目が行った。
相原さんの歌で、座ったまま足を動かしていた人がいた。藤崎さんも、二番がよかったと言われて嬉しそうだった。
俺も、あの続きがやりたい。
スマホで三人のグループを開いた。次の練習は、まだ日を決めていなかった。
日を決めてしまいたかった。歌会から帰ってきたばかりだが、次の休みも空いている。
シフトの写真を見て、空いている日を確かめた。
『今日はありがとうございました。予選の五日前、三時からなら空いています。次の練習、ご都合どうですか』
打ち終えて、読み直す。
少し仕事の連絡みたいだ。ご都合、を消し、空いていますか、と変えようとして、また止まった。
誘い慣れている人は、この辺を何と書くのだろう。
(ああ、めんどくさい。もう書いたのに、自分で直し始めるな)
箸を置き、元の文のまま送った。
伝わればいい。来てほしくて聞いていることは、これでわかるはずだ。
*
食器を洗っている途中で、スマホが鳴った。
俺は泡のついた手を見た。
拭いて返すほど急ぎではない。皿はあと一枚だ。
そう思いつつ、最後の皿を洗う速さは少し上がった。水を切って立て、手を拭きながらテーブルへ戻る。
『私、その日大丈夫。三時から二時間でどう?』
藤崎さんの返信の下に、相原さんからも来ていた。
『俺も行けるよ。今度は大会の伴奏でやろう』
二人とも来られるらしい。
よかった。文の書き方は、あれで大丈夫だった。
『お願いします。部屋、俺が予約しておきます』
送って、店の予約画面を開く。三人、午後三時から二時間。普段は客から聞いて入力している内容だが、自分の名前だと一度確かめたくなる。
人数も、日付も合っていた。
予約完了の画面を見てからグループへ知らせると、すぐに『ありがとう、助かる』と返ってきた。
もう決まった。
誘ってよかったな、とスマホを置く。その横に、相原さんからもらった紙があった。
最後の音を待ってもらったのは、気持ちよかった。
ただ、大会のカラオケで同じことをしても、伴奏は待ってくれない。自分の好きな終わり方を残せるか、三人で集まる前に試したかった。
三日後の昼も空いている。
予約画面を、もう一度開いた。今度は一人で、午後二時から一時間にする。
二時間あったほうが、何曲も試せるかもしれない。
時間の欄を見たまま、少し考えた。
まず一時間でやってみよう。二時間にしても、最後にはもう一曲歌いたくなる気がする。
予約を済ませ、スマホを充電器につないだ。
食事を作って食べている間に、キューブはまた一兆ほど戻っていた。合成ユニットの五基目は、今も買える。
指を伸ばすわけでもないのに、買うボタンへ意識が向きかける。
百兆まで貯めるんだった。
複製の効率化へ画面を切り替えてから、閉じた。
現実の予定も、ゲームで買うものも決まった。三日後は、両方できる。
風呂の支度をしながら、さっきの曲を小さく歌った。
『四月の傘』も、予約した一時間で試してみよう。




