第8話 伴奏の向こうにいる人
練習当日の朝は、八時頃に起きた。
昨日は早めに布団へ入ったので、目覚ましを止めても、もう一度眠らずに済んだ。待ち合わせは二時からだ。まだ時間はある。
ゲームを開くと、実績に達成の印が付いていた。
【累計10,000,000,000,000キューブ生産】
【スキルポイントを9獲得しました】
十兆。
あの夜、帰宅して三基目の合成ユニットを買ってから、二日ほどたっている。俺が店へ行っている間も、寝ている間も、毎秒五千万近くを作ってくれていた。
報酬を受け取ると、ポイントは十一点になった。
歌唱を上げる分が、ちゃんとある。
安心して、今度は設備の一覧を開いた。
【複製プラント】
【購入価格:10,000,000,000,000】
【生産量:20,000,000/秒】
こっちも買える。
四基目の合成ユニットは、五兆一千二百億。改良込みでも、その一基よりプラントのほうが十倍作れる。倍ほど払えば十倍なら、今回は新しいほうだ。
十兆を使った。
【生産速度:209,792,256/秒】
俺は布団の上で、しばらく画面を見た。
二億。
一秒に二億だ。
最後のほうの数字は、もう追えなかった。それでも、設備を見れば何を買ってきたかわかる。生成炉も十二基残っていて、小さな増加をずっと足してくれていた。
ちゃんと、ここまで増やしたのだ。
もう少し眺めていたかったが、いったん閉じて布団を畳んだ。今日は、歌唱も試せる。
朝食のあと、『帰り道』をイヤホンで一度聞いた。
相原さんがギターで弾いてくれたら、この前奏はどうなるんだろう。
いつもより、伴奏の音を気にしながら聞いていた。
*
午後二時、いつものカラオケ店で受付を済ませた。
今日は六番だった。部屋代をどう分けるか確かめてから、三人で廊下を歩く。
相原さんの背中には、大きなギターケースがあった。
「けっこう、大きいんですね」
「ケースに入るとね。ぶつけたくないから、余計に場所取ってる気がする」
部屋の入り口で、少し体を横にしている。
中へ入ると、ケースを壁際に寝かせ、ファスナーを開いた。木の色をしたギターが出てくる。
テレビやスピーカーなら、いつも触っている。でも、誰かの大事な楽器が近くにあると、テーブルの水の置き場が気になった。
相原さんから離れた端へ、グラスを寄せる。
「ありがとう。そこなら大丈夫」
気づかれていた。
よかった。これを倒したら、今日の部屋代どころでは済まない気がする。楽器の修理代なんて知らないし、できれば知らずに帰りたい。
相原さんが弦を一本ずつ鳴らし始めたので、俺はその間にゲームを開いた。
【歌唱 Lv.4 → Lv.5】
【必要スキルポイント:5】
次の練習で試そうと、待っていた五点だ。
確定を押す。
【歌唱 Lv.5】
【所持スキルポイント:6】
画面を閉じると、相原さんがギターの首のあたりを調整していた。短く弦を鳴らし、もう一度確かめている。
俺は水を飲み、マイクを取った。
「先に、普通の伴奏で少し歌っていいですか」
「うん。そのあと合わせよう」
藤崎さんが端末を渡してくれた。
『帰り道』を入れ、前奏を待つ。今度は何が変わるのか、声を出す前から気になっていた。
*
歌い始めてすぐ、言葉が前よりつながるのがわかった。
口をどのくらい開けるか、どこで息を足すか。前は一つずつ気にしていたところを、今日はそのまま進めた。
サビの手前には、短い言葉が続く部分がある。
いつも、最後だけ少し急いでいた。音には追いついても、伸ばすところまで短くなっていたのだと思う。
今日は、そこへ入る前から余裕があった。
手前を少し軽く歌い、最後の言葉には、きちんと声を乗せる。
間に合う。
聞き取りやすくしたくて一つずつ区切っても、途中で引っかからなかった。そのままサビまで、息も声も続く。
画面から、少し顔を上げた。
前より、歌っている間に考えられることが多い。強くしたいところも、抑えておきたいところも、細かく選べた。
一番が終わり、曲を止める。
「今日、言葉が聞きやすいね」
藤崎さんが言った。
「途中、急がなくなった気がします」
「サビの前? 私もそこ思った」
俺はうなずいた。
ちゃんと変わっていた。自分にだけわかる違いではなかったのが、嬉しい。
もう一回歌えば、今度は別のところでも試せる。
端末に手を伸ばしかけたところで、相原さんがギターを構えた。
「じゃあ、こっちでやってみようか」
「……お願いします」
そうだった。今日は、そのために持ってきてくれたのだ。
端末を置き、相原さんへ向き直った。
*
テレビの音を止めると、部屋が静かになった。
相原さんが座る位置を少しずらし、俺の斜め前を向く。右手が動いて、ギターの音が鳴った。
同じ前奏なのに、いつもと違う。
ドラムも鍵盤もないので、弦の響きが切れるところまで聞こえた。
相原さんが軽くうなずく。
俺も息を吸い、歌い出した。
最初だけ、少し声が大きすぎた。
いつもの伴奏へ合わせるつもりで出したせいだ。マイクを離しかけたが、先に声を落としてみる。それでも、言葉ははっきり残せた。
伴奏は、音源よりほんの少しゆっくりだった。
頭の中で覚えている速さのまま歌うと、俺だけ先へ進みそうになる。
相原さんの右手を見た。
弦が鳴るのを聞き、そこへ次の言葉を乗せる。
これなら合う。
声を出しながらでも、相手の音を聞いていられた。伸ばす長さを少し変えても、次の息が苦しくならない。
サビまで歌い、最後のギターの音を待ってからマイクを下ろした。
「どう?」
「……こっちも、好きです」
「よかった。途中、俺のほう遅いなって思ったでしょ」
「少し」
「普段一人だと、この速さで歌ってるから。もうちょっと速くもできるよ」
俺は少し考えた。
速さが嫌だったわけではない。ゆっくりだから、最後のところで、もう少し声を残してみたくなった。
「今くらいで、もう一回できますか」
「うん」
「最後のところ、少し待ってもらって」
どこの最後か足りなかったので、その部分を小さく歌ってみせた。
「ここです」
「声が終わってから、次の音を入れる感じ?」
「はい」
相原さんが短く弾いた。
俺も合わせて歌い、最後の声を細くしていく。今度は、ギターがすぐに次へ進まなかった。
声が消えたあとで、音が重なる。
(あ、これがいい)
相原さんを見たら、向こうもこちらを見ていた。
「今の?」
「今のが、いいです」
「了解。覚えとく」
相原さんは紙へ短く印をつけた。
黙っているけど、こうしてほしい、という希望は俺にもけっこうある。ゲームなら自分で試してしまうところだ。
頼むときは言い方に迷う。でも、もう少し声を残して終わりたい。そこは、ちゃんと伝えたかった。
今日は相原さんが、一緒に音を出して確かめてくれる。これなら、もう少し頼んでみたい。
もう一度合わせると、さっきと同じ終わり方になった。
今度は最初からわかっていたので、声を落とすところを、もっと丁寧に歌えた。
自分の好きな歌い方に、伴奏まで合わせてもらえる。
それは、かなり嬉しかった。
*
次は、相原さんの歌を聞いた。
大会でも歌う、リズムのはっきりした曲だ。ギターで始めると、前に聞いたときより少し落ち着いている。
一番が終わると、相原さんは弦へ手を置いた。
「遅すぎるかな。自分で弾くと、ギターが走らないことばっかり気にしちゃうんだよね」
「私は、もう少し速いほうが好き」
藤崎さんが言った。
「相原くんの曲、足が動くところが好きだから」
俺もうなずいた。
「最初に聞いたときの、あの感じが」
「そっか。ここで縮こまってもしょうがないな」
相原さんは足で拍子を取り直し、もう一度弾いた。
少し速くなると、歌の入り方も変わった。短く切った言葉が、ギターの間へ気持ちよく収まる。
藤崎さんが、膝を軽く叩いていた。
相原さんは、そのまま最後まで歌った。
「こっちでやる。せっかく聞いてもらうし」
紙の最初へ書き足している。
慣れている人でも、その場で変えて試すらしい。最初から全部決まっていて、俺だけが教わる時間になるのかと思っていた。
藤崎さんはスマホで、『窓の灯り』の伴奏を確かめた。鍵盤の入る間が好きなので、歌会にはそちらの音源を持っていくそうだ。
俺も、どちらで歌いたいかを考えた。
予選は申し込んだとおり、会場のカラオケ音源を使う。
でも、三日後なら、このギターで歌ってみたい。
残りの時間に、一曲通して合わせてもらった。
二番のあとの長い間奏では、相原さんの音を聞いていた。最後の何音かで顔が上がる。
軽くうなずき合い、続きを歌った。
最後のサビまで来ても、短い言葉は潰れなかった。声にも余裕が残っている。一番とは少し違う強さで、最後を歌えた。
ギターの音が消えると、藤崎さんが「一曲だと、そうなるんだ」と言った。
俺も、もう一度サビまで歌えたことが嬉しかった。
一番だけで止めていたら、今の歌い方は試せなかった。
*
四時前になり、マイクを充電台へ戻した。
相原さんがギターをケースへしまうのを待ってから、声をかける。
「歌会も、さっきの伴奏でお願いしていいですか」
「もちろん。一曲全部、あの感じでいこう」
「ありがとうございます」
「二番のあとの間奏は任せて。一番の最後は、久瀬くんの声を待つね」
うなずく。
初対面の人がいる場所へ行くのは、まだ緊張する。でも、そこで何を歌うかは決まった。今日好きだと思った終わり方を、その人たちにも聞いてもらえる。
部屋を出る前に、相原さんが印を書き写して、紙を一枚くれた。
「同じの、俺も持ってるから」
「……はい」
折れないようにバッグへ入れた。
精算を待つ間、もう一度だけ取り出して見る。
一番の最後に、鉛筆で『待つ』と書いてあった。
これができるなら、ほかの曲でも、いろいろ頼んでみたくなる。
まずは三日後、この一曲をちゃんと歌おう。




