第87話 歌じゃないところも
控室へ戻ると、森野さんが大きく息を吐いた。
「終わりましたね」
「はい」
俺も椅子へ座った。
舞台では普通に動けたのに、今は、靴を脱ぐ前に少し休みたかった。
小野さんが入ってきて、譜面を机へ置く。
「二曲目、笑ってもらえましたね」
「はい。あそこ、思ってたより」
「歌い出すとき、ちゃんと見えたので大丈夫でした」
俺はうなずいた。
少し待ってから次を歌ったところを、小野さんも合わせてくれた。
客席の前では、声だけで全部を進める必要はなかった。
それが、今日やってみてわかった。
*
着替えてロビーへ出ると、藤崎さんと相原さんが待っていた。
藤崎さんが、俺を見るなり手を上げる。
「お疲れさま。面白かった」
「ありがとうございます」
「レン、ちゃんと自分で借りたね」
俺は少し笑った。
最初に言われるのは歌のことだと思っていたので、少し意外だった。
「はい。借りました」
「電話のところ、こっちもちょっと緊張した。変に格好つけないで頼んでたの、よかった」
俺は、返事を探した。
あそこは、レンが自分で決める場面だった。
大きな声を出すところでも、歌うところでもない。
そこを覚えてもらえたのが、かなり嬉しかった。
(見てくれてたな)
「……あそこ、好きなところです」
「うん。歌が始まってからも、ちゃんとその人が歌ってる感じがした」
俺は、少しだけ顔を下げた。
照れたところを、あまり見られたくなかった。
*
「小野さんの音も、よかったな」
相原さんが言った。
「しゃべってる間に、うるさくならないで入ってくる。あれ、見てて面白かった」
「はい。合わせてもらってます」
「最後の、日時を言うところ。あそこで音が残ってるの、好きだった」
俺は舞台のほうへ目を向けた。
小野さんは、まだ譜面を片付けているらしい。
あとで伝えようと思った。
「久瀬くんの声、あの広さだと、弱いところまでよく聞こえるね」
「大きすぎませんでしたか」
「全然。最後に広がるところが、気持ちよかった」
俺はうなずいた。
(よし)
歌のほうも、ちゃんと褒めてほしかった。
両方聞けて、かなり満足していた。
*
二人と別れようとしたところで、近くにいた女性が声をかけてくれた。
「すみません。今日の、歌ってた方ですよね」
「はい」
「あの映像を見て来ました。歌の続き、聞けてよかったです」
俺は、少し背筋を伸ばした。
予約の感想を読んだことはあった。
でも、本当に、そのために来てくれた人が目の前にいる。
「……ありがとうございます」
「二人が結局どうするのかも見られたので。最後、よかったです」
そう言って、会釈して帰っていった。
俺は頭を下げたまま、少し遅れて顔を上げた。
歌の続きを、自分だけが楽しみにしていたわけではなかった。
それがわかると、もう一度舞台へ戻りたい気分になった。
*
控室では、森野さんが誰かへの返事を打っていた。
「友達が来てくれてました。ソウが途中でちゃんと帰るの、よかったって」
「俺も、そこ、好きです」
「歌、好きだからって、全部付き合うわけじゃないですもんね」
森野さんはスマホをしまい、台本を持ち上げた。
「来週、あそこ、もう少しゆっくり言ってもいいかなって思ってます。今日、ちょっと急いだので」
俺は、自分の最後のページを見た。
直せるところを聞くと、次の公演が、同じものをもう一度やるだけには思えなくなる。
「俺も、返事、聞いてから言います」
「お願いします」
そこへ、安西さんが来た。
「今日は三十八人でした。感想も何枚か預かっています。片付けたら、皆さんにもお見せしますね」
俺はうなずいた。
三十八人が、あの三曲と二人の話を聞いていた。
俺は、空になった客席を思い出した。次の日曜日には、また別の人が座る。今日もらった感想も、先に読んでおきたかった。




