第86話 次の日曜、六時なら
二曲目の途中で、ソウが紙を裏返した。
駅から三十五分。
レンが、寄せていた体をゆっくり戻す。
客席の前のほうで、声を出して笑う人がいた。
俺は、一拍だけ待った。
次の言葉を、笑いの中へ埋めずに歌う。
小野さんが、こちらの息を見て合わせてくれた。
少し遅くしても、曲の流れは止まらなかった。
最後まで欲しい条件を並べたあと、ソウが一覧を畳んだ。
「で、お前は何するの」
俺は、すぐに返した。
「歌う」
「その前」
今度の返事は、少し低かった。
レンも、口を閉じる。
客席が静かになった。
*
ソウは、明日も仕事があると言った。
レンの曲は好きだ。
でも、部屋も、時間も、来る人も、全部決めてやれるわけではない。
森野さんの声は、強く責めるほどにはならなかった。
だから、俺も大げさに傷ついた顔にはしなかった。
言われたことが、わかってしまう。
紙を持つ手を、少し下げた。
「……わかった」
「決まったら、教えて」
ソウが去る。
今回は、引き留めなかった。
俺は一覧を見て、空いている部屋の欄を指で追った。
小野さんの音が、少し静かになる。
客席の中へ背を向けすぎない位置で、スマホを取り出した。
*
電話の向こうの声は、聞こえない。
俺が返す言葉で、相手が何を確かめているのかがわかる場面だった。
「部屋を、借りたいんですけど」
少し待つ。
「日曜です」
紙を見る。
「はい。歌います。……二人で」
そこまで言ってから、レンは一度、相手の予定を思い出す。
来てくれるかは、まだ聞いていない。
でも、その時間の部屋は、ここで押さえられる。
「六時から、お願いします」
言った。
電話を終え、スマホを下ろす。
派手に笑うところではなかった。
俺は、紙の上の時間を見て、小さく息を吐いた。
客席のほうからも、椅子に座り直す音が聞こえた。
ちゃんと、この場面を待って見てもらえている気がした。
*
新しく借りた部屋へ、場面が変わる。
レンは早く来て、椅子を二つ置く。
そのうち一つへ座りかけ、やめた。
相手が来るまで、落ち着かない。
森野さんが、舞台の横から入ってきた。
「早いな」
「借りたから」
「そりゃ、借りたら来るか」
客席で、小さく笑う声がした。
レンは紙を見せる。
新しい歌ではなく、今日の時間が書かれた予約の紙だった。
ソウが、それを受け取る。
「次も、ここ?」
「……来られるなら」
そこで、最後の曲が始まる。
*
『六時の約束』。
俺は、最初の言葉を、相手へ話すくらいの強さで歌った。
前半は、まだ少し確かめている歌だった。
続けたいけど、相手にも予定がある。
勝手に全部を決めることはできない。
低いところでも、声ははっきり出た。
小野さんが、次の音を小さく重ねる。
曲の途中、歌がいったん止まる。
伴奏だけが、残った。
俺は、ソウを見た。
森野さんが、予約の紙を見て、それからこちらへ顔を向ける。
「次の日曜、六時なら」
俺は、少し笑った。
そこで、息を吸った。
*
後半の声が、自然に広がった。
来てくれる時間が、決まった。
嬉しいから歌う、というところへ、そのまま入れた。
高い音を長く出す。
客席の後ろまで届かせながら、途中で声を固くしなかった。
森野さんは、空いている椅子の横に立っていた。
自分の番が終わった顔ではなく、これからここで聞く人の顔だった。
俺はその人へ、最後の言葉を歌った。
音が消える。
ソウが、椅子を少し引いた。
「じゃあ、六時で」
「うん」
明かりが、ゆっくり落ちた。
拍手が聞こえた。
最初は一か所からだったのが、すぐに広がった。
俺は暗い中で、手を一度だけ握った。
(終わった)
ちゃんと、最後までやった。
舞台が明るくなり、森野さんが隣へ来る。
小野さんも立ち上がった。
三人で並び、客席へ頭を下げる。
顔を上げると、藤崎さんが拍手をしていた。
その隣で、相原さんも笑っている。
俺はもう一度、少しだけ頭を下げた。
接客より、深くなった。




