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第84話 一列目が、近い

 木曜日の最後の稽古を終え、土曜日には小ホールへ入った。


 五十脚の椅子が、舞台へ向かって並んでいる。


 最前列は、思っていたより近かった。


 ここへ人が座ったら、顔が普通に見える。


 俺は舞台の端で止まり、客席を見た。


「近いですね」


 森野さんが隣へ来た。


「はい」


「僕、こういう広さ、結構好きです。小さい反応もわかるので」


 俺は、一列目の椅子をもう一度見た。


 (こっちの顔も、よくわかるな)


 そこは、少し気になった。


     *


 舞台には、練習で使っていた机と椅子が置かれていた。


 小野さんの電子ピアノは、客席から見て左の端にある。演じているところが見えるよう、少し内側へ向いていた。


 照明がつくと、床に、自分の影が伸びた。


 俺は教わった場所へ立つ。


 動く範囲を確かめ、机の角へ手を置いた。


 高さは、練習と同じだった。


 それだけで、少し安心できた。


 音を担当する人が、マイクの位置と声を確かめる。俺は短い台詞を言ってから、最初の歌を少し歌った。


 返ってくる音が、練習室とは違った。


 広くなったぶん、声の終わりが少し残る。


 次の言葉へ、その音を引っかけないようにした。


     *


 安西さんが、客席の後ろへ座った。


「最後の曲の、弱いところをお願いします」


 小野さんが伴奏を始める。


 俺は、低いところを、息だけにせず歌った。


 声を小さくするときも、言葉がどこまで続くかは保つ。最後の文字を急いで消さず、次の息まで置いた。


「そこ、聞こえています。もう少し小さくしても大丈夫」


 安西さんの声がした。


 もう一度、歌う。


 小野さんも、少し弱く弾いた。


 声を押さえても、高さは変わらなかった。


 歌唱を八にしてから、何度も使ってきたやり方だった。


 客席が近いからといって、全部を大きい声で埋める必要はない。


 近くへ言うつもりで歌い、最後だけ少し広げた。


「はい。今の感じ、好きです」


 安西さんが言った。


 俺は、マイクの線を避けて一歩戻った。


 (よし。ここでも、できる)


     *


 森野さんとの場面も、頭から通した。


 暗くなったところで椅子を動かし、明るくなる位置へ出る。


 紙を裏返す。


 コップを置く。


 実際の床では、椅子を引くと少し音がした。大きく鳴らさない持ち方を試し、次には静かに置けた。


 動きのほうに気を取られても、台詞は落ちなかった。


 森野さんが返してくれる。


 俺は、ちゃんと相手を見て答えた。


 最後まで終えると、舞台が明るくなった。


「明日も、この流れでいきましょう」


 安西さんが、客席から立ち上がる。


 俺は、ようやく肩を下ろした。


     *


 片付ける前に、客席へ降りてみた。


 三列目へ座り、舞台を見る。


 思っていたより、机の上まで見えた。


 歌詞の紙を出す手も、ためらう顔も、ここからなら見える。


 森野さんが、舞台でバッグを持った。


「こんな感じです?」


「はい。よく見えます」


「じゃあ、雑に持てないですね」


 森野さんは、いつものソウの持ち方へ変えた。


 それだけで、帰る準備をしているように見えた。


 俺は少し笑った。


 この人となら、明日もやれそうだった。


     *


 帰りの電車で、藤崎さんからの連絡を読んだ。


『明日、相原さんと行くね。楽しみにしてる』


 ありがとうございます、と返す。


 続けて何か書こうとして、少し迷った。


 頑張ります。


 それは、もちろんそうだった。


 でも、見てもらいたいところも、もう決まっている。


『最後の曲まで、聞いてほしいです』


 送ると、すぐに返事が来た。


『もちろん。途中で帰らないよ』


 俺はスマホを見て、少し笑った。


 (引き留める前から、残ってくれる)


 ありがたい。


 明日は、その時間を使って歌いたかった。


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