第82話 椅子を動かすあいだにも
木曜日の稽古では、二曲目の途中で笑われた。
俺が、安い部屋を見つけて一覧へ身を寄せるところだった。
次の行に、駅から徒歩三十五分と書いてある。
それを見たレンが、少しだけ紙を遠ざける。
大きく嫌な顔はしなかった。さっきまで欲しそうだった手を、ゆっくり自分の膝へ戻しただけだった。
小野さんが、弾き終えたあとで笑う。
「今の、諦めたのわかりました」
「歩けなくはないんですけど」
俺が答えると、森野さんがこちらを見た。
「今、レンの返事?」
俺は少し考えた。
自分でも、歌う前に三十五分歩くのは面倒だと思う。
「……半分くらいは」
森野さんが、また笑った。
*
その翌週の木曜日、初めて最後まで止めずに通した。
最初の音楽室から、喫茶店、借りたい部屋への電話まで。
小野さんは場面が変わる間にも、短い音を入れてくれる。
俺たちは椅子の向きを変え、コップを片付け、次の場所へ移ったつもりで話す。
歌も、三曲全部歌った。
最後にソウが日時を答える。
その声を聞き、俺はレンとして笑った。
最後の音が終わると、安西さんが時計を止めた。
「三十七分十秒でした」
俺は息を整えた。
台本で読んだよりも、長い時間をやっていた気がした。
喉は、まだ使える。
ただ、座って水を飲みたかった。
*
「枠からは出ていません。でも、お客さんが笑ったり、拍手してくれたりすると、その分が足されます」
安西さんが台本を置いた。
「少し、流れを整理したいです。歌を速くするのは、したくありません」
俺はうなずいた。
最後の曲を急いで歌うのは、俺も嫌だった。
小野さんが、場面の変わるところへ印をつける。
「ここの片付け、音だけで待ってる時間が、結構ありましたね」
「そうですね」
森野さんが、椅子を見た。
俺も、さっきの動きを思い出した。
喫茶店の場面が終わる。
コップを下げる。
椅子を回す。
次の位置に立ってから、二人で話し始める。
話していない時間が、意外と長かった。
*
俺は、台本の同じところを読んだ。
ソウが言うのは、結局どこにするのか、ということだった。
座ったままでなくても言える。
「……片付けてる間に、話したら駄目ですか」
安西さんが、顔を上げた。
「どの台詞を?」
「ここです。出る前に、決めるかって聞かれるところ」
俺は、コップを手に取った。
レンが捨てに行くつもりで歩き、ソウは椅子を戻しながら話す。
そのまま二人で、次の場所へ向かえる。
森野さんが、自分の台詞を読んだ。
「ああ。これなら、座って待ってなくてもいいですね」
「はい。ここなら、動いても言えます」
答えたあとで、少し肩に力が入った。
歌いたいとは何度も言ったけど、場面のやり方を提案するのは、まだ慣れていなかった。
安西さんが、俺の置いたコップを見る。
「一度、それで試しましょう」
俺はうなずいた。
(よかった。変なことは、言ってなかった)
*
やってみると、すぐには上手くつながらなかった。
俺がコップを置きに行くと、森野さんに背を向けることになる。返事をするとき、声が壁へ向いた。
演技ができても、家具の位置までは変わらない。
俺は、戻ってきた。
「こっちに置いたほうが、話しやすそうです」
台の位置を示すと、安西さんがうなずく。
「次の日曜までに、置き方も一緒に考えます。片付けながら会話する案は使いたいです」
「お願いします」
森野さんも、一覧の紙を持ったまま、少し動いてみていた。
「僕も、これを取りに戻るところ、減らせるかも」
俺は、その手元を見た。
まだ全部は決まっていない。
でも、次に何を試すのかは、はっきりした。
帰りの電車で、台本へ小さい矢印を書いた。
速く話すのではなく、歩いている間にも、相手へ言えることを言う。
そこまで考えると、日曜の稽古が早く来てほしくなった。




