第77話 そのあとも、台詞がある
小野さんが、最初の音を弾いた。
俺は息を吸い、『まだ、ここで』を歌い始めた。
知っている六十五秒までは、撮影したときの感覚が残っていた。
近くにいる相手へ話すくらいの声から、少しずつ広げる。森野さんがバッグを置いて座ると、後半の声が明るくなる。
そこから、曲が続いた。
いったん低く戻った旋律を、声の響きを残したまま追う。次の高い音へ上がる前には、もう必要な息の量がわかった。
肩を上げずに吸った。
音が、思っていた場所へ出る。
俺は、少し楽しくなった。
見本で好きになったところを、自分の声で歌っている。
長く伸ばし、最後の言葉を閉じた。
小野さんの音が残る。
俺は、曲が終わるのを待った。
「……で、部屋は」
森野さんが言った。
俺は、そちらを見た。
少し遅れた。
*
安西さんが手を上げた。
「歌、いいです。すごく気持ちよく聞けました」
「ありがとうございます」
「最後、久瀬さんは、一曲歌い終わった顔になりましたね」
俺は、持っていた紙を見た。
そこに、次の台詞がある。
レンは歌い終えたあとで、褒めてくれるか、ソウを見ている。それなのに相手が部屋の話へ戻すので、少し不満になる。
俺は普通に、いい曲だったと思って終えていた。
(満足するの、早かった)
小野さんが、最後の数小節をもう一度弾く。
「この音のあと、すぐにソウさんが話しても大丈夫です。全部静かになるまで待たなくても」
森野さんがうなずいた。
「じゃあ、もう少し早く言ってみます」
俺も立つ位置へ戻った。
今度は、歌が終わったあとの顔まで、相手へ向けておく。
*
最後の言葉を歌った。
声を伸ばし、無理なく閉じる。
それからソウを見た。
どうだったか聞く代わりに、顔だけ向ける。
「……で、部屋は」
少し、腹が立った。
わざとそういう気持ちで返すと、短い台詞が出た。
「今、そこ?」
「そこだよ」
森野さんの返事が速かった。
小野さんが鍵盤から手を離す。
隣で、安西さんが笑った。
「今の、好きです。歌がよかった分、話を戻された顔が効きます」
俺は口元を戻した。
(ひどいな。せめて一回、褒めてくれ)
もちろん、ソウに向けて思ったことだった。
森野さんには、さっき歌を褒めてもらっている。
*
休憩に入ると、小野さんが譜面を机に置いた。
「声、合わせやすいです。弱いところでも音がふらつかないから、私も小さく弾ける」
「そうなんですか」
「はい。歌の音を探すために、こっちだけ大きくしなくていいので」
俺は、鍵盤のほうを見た。
自分の声が出せることばかり考えていたけど、伴奏の人にも、やりやすい大きさがあるらしい。
「もう少し弱くも、できます」
言ってから、今は休憩だったと思い出した。
小野さんが笑う。
「あとで一か所、試してもらっていいですか」
「はい」
俺は水を飲んだ。
また歌える場所が、一つ増えた。
*
二曲目は、軽い速さだった。
『空き部屋を探して』。
歌っている途中で、森野さんが短く返してくる。
俺が広い場所を求めると、家賃の話になる。
安い場所を求めると、駅から遠くなる。
どういう注文なら通るのか考えているうちに、次の歌詞が来た。
俺は声を弾ませ、少しだけ得意そうな顔で歌った。
「冷暖房も?」
「いる」
「贅沢だな」
そこから、また旋律へ戻る。
会話が入っても、拍は見失わなかった。小野さんの左手の音を聞き、次の入りを選べる。
歌い終えると、森野さんが額へ手を当てた。
「こいつ、全然譲らないですね」
俺は、少し笑った。
歌う機会と部屋の条件のためなら、この人物は、なかなか強かった。
安西さんが、台本へ印をつける。
「二人の言い合いが見えてきました。次から、動きも入れましょう」
俺は、自分のページにも同じ印をつけた。
歌だけなら、もう最後までいけそうだった。
でも、今日は歌っている途中にも、返事が来た。
それが少し嬉しかったので、帰り道には、自分の曲だけでなく森野さんの台詞も思い出していた。




