第76話 鍵盤の人は、待ってくれる
木曜日、文化館の案内板の前で足を止めた。
小ホールの横に、練習室の名前が並んでいる。
俺は、スマホに届いた部屋番号を確かめた。
二階、第三練習室。
今日は、七番の客室ではなかった。
それでも、入る前に番号を二度見るところは、あまり変わらない。
扉を開けると、鍵盤の音がした。
窓際に電子ピアノがあり、女性が短い旋律を弾いていた。森野さんが椅子を動かす手を止め、こちらへ顔を向ける。
「お疲れさまです。来ましたね、部屋を探す人」
「……今日は、ありました」
「よかった」
森野さんが笑った。
知っている人がいて、少し助かった。
*
「鍵盤を担当する、小野です」
女性が立ち上がった。
「久瀬です。よろしくお願いします」
「映像、見ました。あの歌、今日は一緒にできるの楽しみにしてました」
「……ありがとうございます」
俺はバッグを壁際へ置いた。
小野さんの譜面には、曲だけでなく、台詞の終わりも書いてあった。ところどころに鉛筆の丸がついている。
「曲が始まるところ、台詞で合わせるんですか」
「そうです。歌う前に久瀬さんが息を吸うのも見ます。早く入っちゃったら、言ってくださいね」
俺は、もう一度譜面を見た。
普段のカラオケなら、前奏が来たところへ、自分が合わせて入る。
今日は、向こうもこちらを見てくれるらしい。
(それは、ありがたい)
少し考え込んで出遅れるところまで、待ってもらうつもりはなかったけど。
*
安西さんが、椅子を二つ並べた。
演じるのは、俺と森野さん。小野さんは舞台の端で演奏する。
登場人物を大勢増やすのではなく、二人が部屋を探している間に、場所を変えていく話だった。
最初は音楽室。
次は、駅前の喫茶店。
最後には、新しく借りることにした小さな部屋へ行く。
「大きな看板を毎回出すわけではありません。椅子の置き方と、二人が何をしているかで場所を見せます」
そう言って、安西さんは机に紙のコップを二つ置いた。
「ここなら、喫茶店」
森野さんが、片方を手に取る。
「何も頼まないで部屋探しを始めると、店の人に怒られますもんね」
「レンは、そこも安く済ませたいかもしれません」
安西さんに言われ、俺は自分の台本を見た。
いちばん安い飲み物を頼む、と書いてあった。
(本当に、そうだった)
否定する材料がなかった。
*
最初に、全体を座って読んだ。
知っている音楽室の場面が終わると、翌日の喫茶店になる。
「駅から、どのくらいなら歩ける」
森野さんが読んだ。
「五分」
「狭くなるけど」
「広いほうがいい」
「高くなるぞ」
「安いほうがいい」
「……お前が探せ」
俺は次の行へ目を落とし、思わず笑いそうになった。
そこから二曲目が始まる。
『空き部屋を探して』。
レンが欲しい部屋の条件を挙げて歌い、途中でソウが、そんな部屋は空いていないと返す。
俺は曲の見本を聞いたときより、歌いたくなった。
これなら、少し図々しく歌ってもいい。
普段の自分が同じことを頼めば、かなり困らせるだろうけど、今日は台本に書いてある。
(遠慮なく、いい部屋を要求しよう)
*
最後の場面まで読むと、森野さんが紙を戻した。
「僕、最初は、ソウが全部用意してあげる人なのかなと思ったんですけど」
「はい」
「そうじゃないのが好きです。途中で、ちゃんと帰るから」
安西さんがうなずいた。
「仕事もあるし、次の日も自分の予定がある人です。レンの歌は好きだけど、いつでも付き合えるわけではない」
最後に、レンが日時を伝える。
そこでようやくソウも、自分が行ける時間を言う。
俺は、あの台詞を見た。
次の日曜、六時なら。
断られなかったから嬉しい、だけではない。
いつ来てくれるのかまで、わかる返事だった。
「ここ、聞いてから歌うんですね」
俺が言うと、小野さんが譜面を持ち上げた。
「はい。そこは、ちゃんと待ちます」
前奏の手前に、丸がついていた。
俺はうなずいた。
早く歌いたいけど、その返事も、最後まで聞きたかった。
安西さんが時計を見る。
「では、最初の曲から合わせましょうか」
俺は紙を持って立ち上がった。
小野さんが鍵盤へ向き直り、森野さんも椅子を動かす。
今度は、流れてくる見本を一人で聞く時間ではなかった。




