第70話 今日は、客席にいる
日曜日の商店街には、いつもより人が多かった。
駅から続く通りに屋台が並び、少し先の広場からギターの音が聞こえてくる。俺は案内の矢印を確かめてから、そちらへ曲がった。
相原さんは、客席の後ろで片手を上げた。
「お疲れ。昨日まで撮影だったんだよね」
「はい。終わりました」
「どうだった?」
「……何回も、人を引き留めました」
言ってから、説明が足りないと気づいた。
相原さんが笑う。
「そういう役?」
「はい。歌を聞いてもらう役です」
「それは、合ってそう」
俺は、うなずいた。
聞いてほしいというところは、特に困らなかった。
広場には椅子が五列ほど並んでいた。空いていた三列目の端へ、二人で座る。低い舞台の脇では、次の出演者が係の人と話していた。
藤崎さんだった。
こちらに気づき、小さく手を振る。その手がすぐ、自分の胸元へ戻った。
たぶん、緊張している。
俺も手を上げて返した。
*
午後一時二十分。
司会の人が名前を呼ぶと、藤崎さんが舞台へ上がった。
「こんにちは。今日は『青いスニーカー』を歌います」
普段より、少し声が高かった。
「歩いてるときに聞くと、つい遠回りしたくなる曲で。よかったら、聞いていってください」
マイクを握り直す。
俺は膝の上に手を置いた。
前奏が始まると、藤崎さんの足が、小さく拍を取った。
歌会のときにも見た動きだった。
最初の言葉が、明るく出た。
サビへ向かう途中で一度、こちらを見た気がした。相原さんが、音に合わせて軽くうなずく。俺も同じようにした。
藤崎さんの肩が、少し下がった。
そこから、声がよく伸びた。
高いところを出す前に、息を吸う。歌い終えた言葉を急いで切らずに、次へつないでいく。
俺には、その息の使い方も聞こえた。
でも、今、本人に何か言う必要はない。
隣で相原さんが、つま先を動かしている。通りを歩いていた親子が、舞台の横で足を止めた。
二番に入った藤崎さんは、さっきより顔を上げていた。
俺の口も、少し動いた。
この曲は、覚えている。
(歌うなよ。今日は、そっちじゃない)
口を閉じて、続きを聞いた。
四分二十秒の曲が終わる。
藤崎さんは最後の音をしっかり伸ばしてから、笑った。
「ありがとうございました」
拍手をした。
横で見ていた子供も、両手を叩いていた。
*
舞台から少し離れたところで待っていると、藤崎さんが小走りで来た。
「終わったー」
俺たちの前で足を止め、大きく息を吐く。
「どうだった? 最初、声、変じゃなかった?」
「よかったよ。だんだん楽しそうになってた」
相原さんが言った。
俺もうなずく。
「最後のサビ、好きでした」
「ほんと?」
「はい。二回目の、高くなるところ」
「あそこね。今日は、いけそうって思えたんだ」
藤崎さんが笑った。
舞台にいたときと、似た顔だった。
「終わるとき、ちゃんと笑えた。あれがやりたかったんだよね」
水を一口飲んでから、こちらを見る。
「二人とも、来てくれてありがとう。見つけたとき、助かった」
「また呼んでよ」
「……俺も、聞きたいです」
「うん。次、何にしようかな」
もう次の曲の話になった。
俺は、屋台で買った飲み物を持ち直した。
(わかる)
一曲ちゃんと歌えたら、ほかの曲でも試したくなる。
藤崎さんは相原さんに、少し速い曲の名前を挙げていた。今度はギターでできるか、相原さんが指で拍を数えている。
俺たちは夕方の勤務に間に合うよう、もう一組だけ聞いてから駅へ戻った。
*
翌日の午後、俺は石倉さんの録音室にいた。
今日は、読書フェアの短い曲を録る。
フェアの名前は『本と休日』。案内映像と公式ページで、来週の日曜日から二週間使う曲だった。
曲名は『ページをめくって』。
十五秒の中に、主旋律と、その上へ重なる声がある。送ってもらった見本で、両方覚えてきた。
「まず、下の主旋律からいこうか」
「はい」
ヘッドホンをつけた。
昨日、藤崎さんが歌い始めるのを待ったときより、自分の番を待っている今のほうが落ち着いていた。
歌うところは、もうわかっている。
録音が始まると、最初の音を少し柔らかく出した。短い曲でも、言葉を全部同じ強さにはしない。真ん中で少し広げ、最後の一言を残す。
十五秒で、伴奏が終わった。
「いいね。最後の伸ばしだけ、もう少し短くもらっていい?」
「はい」
二度目は、言われた分だけ早く閉じた。
次に、上へ重なる声を録った。
さっきの自分の声が、ヘッドホンから聞こえる。
息を吸う位置を揃え、同じ言葉へ重ねた。高いほうの声を目立たせすぎず、終わりも合わせる。
歌唱を上げてから、このくらいの高さでは喉に力を入れなくてよくなった。下の声を聞きながらでも、細かいところまで動かせた。
「うん。ちょっと、こっちで聞こう」
石倉さんに呼ばれ、机の横へ座る。
二つの声を合わせたものが、スピーカーから流れた。
思っていたより、ずっとよかった。
主旋律だけでは少し空いていたところを、上の声が埋めている。最後の言葉が、二つとも同じところで消えた。
俺は、音が止まったあともスピーカーを見ていた。
「どう?」
「……もう一回、聞いてもいいですか」
「いいよ。気になるところあった?」
「いえ。好きだったので」
石倉さんが笑って、再生を押した。
(そうです。普通に、もう一回聞きたかったんです)
今度は、自分の声の高いほうを追った。
これも、一人で歌っただけでは聞けない音だった。




