第69話 バッグを、置いた
石倉さんが、伴奏の音を流した。
部屋の中へ、静かな音が広がる。
俺は歌い出しの場所を確かめ、声を合わせた。
今日は、芝居の中で歌っている声も録る。あとで口の動きだけ合わせる撮り方ではないと、前もって聞いていた。
音を拾うマイクは、画面に入らない位置へ向けられている。
俺が大きく動くと拾い方も変わるので、歌う場所は決めておいた。
そこに立つ。
森野さんは、まだバッグを持っていた。
歌の前の台詞から始めた。
「できたから」
俺は紙を見せる。
ソウが目を落とし、少しして、顔を上げた。
「聞くだけだからな」
俺は、うなずいた。
それだけで十分だと、レンは思っている。
石倉さんの合図に合わせ、伴奏が始まった。
息を吸った。
最初は、話していた声に近づけた。
急に公演の声へ切り替えると、この部屋で話していた人物から離れてしまう。
近くにいる友人へ、さっきの言葉を続けるくらいの大きさで歌った。
弱い声でも、言葉ははっきり出せた。
歌唱を八にして、録音でも何度も使った声だった。
ソウが、バッグを持ち直した。
まだ、帰るためかもしれない。
俺は、その動きを目で追いすぎずに歌った。
聞いてほしい。
でも、そう思っていることを、全部顔へ出したい人物ではない。
最初の短い部分を歌い終えたところで、ソウがバッグを床へ置いた。
そのまま、椅子へ座る。
俺は相手の顔を見た。
少し安心して、次の音が明るくなった。
後半で、声を伸ばした。
広場の向こうへ届かせる大きさではない。
この距離の相手へ、最後のところまで聞いてほしい。
そのまま高い音へ上げる。
声は、無理なく出た。
森野さんは椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
俺は最後の言葉を歌い、音を閉じた。
伴奏だけが少し残る。
ソウが言った。
「……次は、どこでやる」
俺は、相手を見たまま笑った。
そこまでで、短い場面は終わった。
*
「はい、カット」
安西さんの声が聞こえた。
俺は、ようやく視線をカメラのほうへ戻した。
「いいです。今の、歌が始まってから座るところも、最後の顔も」
森野さんが立ち上がる。
俺は、少し遅れて頭を下げた。
「ありがとうございます」
さっきの最後の言葉が、まだ頭に残っていた。
次は、どこでやる。
俺にも、少し嬉しい返事だった。
(やる気になってくれたな)
役として決まっていることなのに、実際に目の前で言われると、ちゃんと嬉しかった。
*
撮ったものを確認したあと、別の向きからも歌った。
バッグを置くのは、同じ歌詞の終わり。
俺が相手を見るところも、揃える。
最初に出した声へ合わせ、後半で明るくする位置も戻した。
歌唱と演技の両方があると、どちらかだけを気にして止まることが減っていた。
同じ歌を、同じ動きで終えた。
石倉さんが音を聞き、安西さんが映像を確かめる。
「使えるもの、揃いました」
その言葉で、撮影が終わるとわかった。
少し、惜しかった。
午後六時になる前に、衣装を着替えた。
鍵も、歌詞の紙も、撮影用のものは担当の人へ返す。
机から物が片付けられ始めると、さっきまで音楽室に見えていた部屋が、少しずつ広くなった。
森野さんも私服へ着替え、バッグを肩へ掛けた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
俺は、止めずに返事をした。
(さすがに、今日は帰ってください)
自分も、少しお腹が空いていた。
安西さんは、来週の確認について話した。
「つないだものを、水曜日に一度見てもらいます。必要なら声を少し足して、仕上げますね」
「はい」
「土曜日に、完成したものをここではなく、石倉さんのところで見る予定です」
俺は日程をスマホへ入れた。
撮るところは終わった。
これから、別々に撮った場面が一つになる。
自分の顔が映っていないところも、早く見たかった。
部屋を出ると、空はまだ明るかった。
俺は駅へ歩きながら、明日の藤崎さんの出演時刻も確かめた。
午後一時二十分。
今度は、歌っている人を、最初から最後まで聞くほうだった。




