↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
69/174

第69話 バッグを、置いた

 石倉さんが、伴奏の音を流した。


 部屋の中へ、静かな音が広がる。


 俺は歌い出しの場所を確かめ、声を合わせた。


 今日は、芝居の中で歌っている声も録る。あとで口の動きだけ合わせる撮り方ではないと、前もって聞いていた。


 音を拾うマイクは、画面に入らない位置へ向けられている。


 俺が大きく動くと拾い方も変わるので、歌う場所は決めておいた。


 そこに立つ。


 森野さんは、まだバッグを持っていた。


 歌の前の台詞から始めた。


「できたから」


 俺は紙を見せる。


 ソウが目を落とし、少しして、顔を上げた。


「聞くだけだからな」


 俺は、うなずいた。


 それだけで十分だと、レンは思っている。


 石倉さんの合図に合わせ、伴奏が始まった。


 息を吸った。


 最初は、話していた声に近づけた。


 急に公演の声へ切り替えると、この部屋で話していた人物から離れてしまう。


 近くにいる友人へ、さっきの言葉を続けるくらいの大きさで歌った。


 弱い声でも、言葉ははっきり出せた。


 歌唱を八にして、録音でも何度も使った声だった。


 ソウが、バッグを持ち直した。


 まだ、帰るためかもしれない。


 俺は、その動きを目で追いすぎずに歌った。


 聞いてほしい。


 でも、そう思っていることを、全部顔へ出したい人物ではない。


 最初の短い部分を歌い終えたところで、ソウがバッグを床へ置いた。


 そのまま、椅子へ座る。


 俺は相手の顔を見た。


 少し安心して、次の音が明るくなった。


 後半で、声を伸ばした。


 広場の向こうへ届かせる大きさではない。


 この距離の相手へ、最後のところまで聞いてほしい。


 そのまま高い音へ上げる。


 声は、無理なく出た。


 森野さんは椅子に座ったまま、こちらを見ていた。


 俺は最後の言葉を歌い、音を閉じた。


 伴奏だけが少し残る。


 ソウが言った。


「……次は、どこでやる」


 俺は、相手を見たまま笑った。


 そこまでで、短い場面は終わった。


     *


「はい、カット」


 安西さんの声が聞こえた。


 俺は、ようやく視線をカメラのほうへ戻した。


「いいです。今の、歌が始まってから座るところも、最後の顔も」


 森野さんが立ち上がる。


 俺は、少し遅れて頭を下げた。


「ありがとうございます」


 さっきの最後の言葉が、まだ頭に残っていた。


 次は、どこでやる。


 俺にも、少し嬉しい返事だった。


 (やる気になってくれたな)


 役として決まっていることなのに、実際に目の前で言われると、ちゃんと嬉しかった。


     *


 撮ったものを確認したあと、別の向きからも歌った。


 バッグを置くのは、同じ歌詞の終わり。


 俺が相手を見るところも、揃える。


 最初に出した声へ合わせ、後半で明るくする位置も戻した。


 歌唱と演技の両方があると、どちらかだけを気にして止まることが減っていた。


 同じ歌を、同じ動きで終えた。


 石倉さんが音を聞き、安西さんが映像を確かめる。


「使えるもの、揃いました」


 その言葉で、撮影が終わるとわかった。


 少し、惜しかった。


 午後六時になる前に、衣装を着替えた。


 鍵も、歌詞の紙も、撮影用のものは担当の人へ返す。


 机から物が片付けられ始めると、さっきまで音楽室に見えていた部屋が、少しずつ広くなった。


 森野さんも私服へ着替え、バッグを肩へ掛けた。


「お疲れさまでした」


「お疲れさまでした」


 俺は、止めずに返事をした。


 (さすがに、今日は帰ってください)


 自分も、少しお腹が空いていた。


 安西さんは、来週の確認について話した。


「つないだものを、水曜日に一度見てもらいます。必要なら声を少し足して、仕上げますね」


「はい」


「土曜日に、完成したものをここではなく、石倉さんのところで見る予定です」


 俺は日程をスマホへ入れた。


 撮るところは終わった。


 これから、別々に撮った場面が一つになる。


 自分の顔が映っていないところも、早く見たかった。


 部屋を出ると、空はまだ明るかった。


 俺は駅へ歩きながら、明日の藤崎さんの出演時刻も確かめた。


 午後一時二十分。


 今度は、歌っている人を、最初から最後まで聞くほうだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。