第66話 鍵は、右の端
水曜日の午後、電車を降り、教わった道を歩いた。
撮影に使うのは、以前は店だったという一階の部屋だった。
大きな窓に布がかかり、奥へ机と椅子、譜面台が置いてある。壁には、使い終えた催しの紙が何枚か貼ってあった。
まだ部屋は明るかったが、そこだけ見ると、小さい音楽室に見えた。
「こんにちは」
俺が挨拶すると、森野さんがバッグを置いて振り返った。
「実際の場所だと、結構近いですね」
椅子と、出口に使う扉の間を見ている。
俺もうなずいた。
家で試したより、歩く距離は短かった。
撮影を担当する人たちに挨拶し、安西さんから動きを聞いた。
レンは鍵を持って入ってきて、机へ置く。
ソウは片付けをしながら、帰ると言う。
そこから、あのやり取りが始まる。
俺は預かった鍵を、机の右端へ置いた。
「そこ、覚えておいてください。別の方向から撮るときにも、同じ位置へ置いてもらいます」
「はい」
位置を見た。
机の角から、指二本くらい内側。
歌詞の紙は左手、鍵は右手。
そこまで確かめると、覚えるものが少し多く感じた。
(台詞だけで終わりじゃなかったな)
とはいえ、昨日から動きはずっと楽になっている。
一度、最初からやってみたかった。
扉を開け、部屋へ入った。
鍵を机へ置く。
森野さんが、その音を聞いて顔を上げた。
俺は言葉を待つ。
「帰るぞ」
呼び止めた。
森野さんが止まり、紙へ目を向ける。
俺は見せかけて、一度引いた。
その間に右手を下ろしても、顔の感じは変わらなかった。
次の台詞へ進む。
椅子を引くところでも、相手を見ていられた。
安西さんが、最後まで見てからうなずいた。
「動きが自然になりましたね。日曜日より、途中で考えている間がなくなった」
「……家でも、試しました」
「この部屋では、今の歩幅で大丈夫です」
俺は足元を見た。
その長さを、次も使えそうだった。
もう一度、扉の外から始めた。
鍵を置く場所は、同じ。
紙を持ち直すところも、同じ。
相手の返事が少し変わったところだけ、俺も待ち方を変えた。
手を止めて固まる必要はなかった。相手を見ながら、決まったところへ椅子を戻せる。
森野さんが、やり取りのあとで言った。
「いいですね。目を戻してくれるので、こっちも返しやすい」
「ありがとうございます」
短く答えながら、内心では少し浮かれていた。
昨日、買ってよかった。
今ここで、その違いが出ている。
*
安西さんが、レンの最後の台詞を指した。
「ここでは、歌を聞いてほしい気持ちを、もう少し隠してもいいです。平気そうに振る舞う人なので」
俺は、その行を見た。
自分なら、聞いてほしいと先に言ってしまいそうだった。
メールでも、わざわざ歌もやりたいと送った。
でも、レンは違うらしい。
聞いてほしいくせに、別にどちらでもいいような顔をする。
(面倒くさいな、お前)
そう思ってから、少しわかった。
断られたとき、平気な顔をしていたいのかもしれない。
俺は、紙をすぐには差し出さず、机の端へ軽く置いた。
相手が見るか、見ないか。
顔はそちらへ向けすぎず、視線だけ少し残した。
安西さんが笑った。
「そう。見てほしいのは、ちゃんとわかる。そのくらいで」
俺はうなずいた。
やり方がわかると、この面倒な人を演じるのも、少し楽しかった。
*
下見が終わり、鍵を担当の人へ返した。
衣装は、ロゴのないシャツと暗い色のパンツで決まった。手持ちの候補を見せ、同じものを二日間使うことにした。
新しく一式買う必要はなかった。
(助かる。そこは、助かる)
六万円をもらう予定でも、服のためにまとめて出ていくのは惜しかった。
外へ出ると、まだ明るかった。
俺は、制作室へ行くときより少し高い電車代を確かめ、駅へ向かった。
金曜日には、この部屋で撮る。
台詞を言って、相手が返して、歌へつながるところまで。
バッグの中の紙を思い出すと、もう一度部屋へ戻って試したくなった。
今日は、このあと店の勤務がある。
金曜日の予定をスマホで見てから、駅の階段を上がった。




